邪馬台国論争は江戸時代から続く人気の話題であるが、邪馬台国について記載された魏志倭人伝などの文献だけではその位置の特定はできず、様々な論者が他の文献や考古学的資料を元に間接的に位置を推論している状況にある。そして、その推論というのは、自説を補強する事を目的とした突飛なものが多い。
中にはとても論理として成立していない推論を堂々と主張する人達もいる。その代表が、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとする主張である。論理としては成立していないのに、何故だか耶馬台国近畿説が正しい事を示すものとして宣伝されており、嘘も繰り返せば定着するという戦略なのか、平然と詭弁を続けている状況にある。
箸墓古墳とは、纏向遺跡の一つであり、奈良に存在する。これを卑弥呼の墓と主張するのは、もともとは「近畿説が正しければ」ここが卑弥呼の墓に相応しい、というもので、つまり近畿説を証明するものではない。ところが奇妙な論法が平然と語られているのだ。今回はその中でも「桃の種が発見されたから箸墓古墳は卑弥呼の墓である」という近畿論者の主張を例として触れよう。
「纏向遺跡から発見されたモモの種を炭素年代測定したところ、3世紀前半のものである事が判明した。ところで邪馬台国は3世紀の国である。したがって、邪馬台国の所在地は纏向である。」
纏向遺跡が邪馬台国と同時代であるからと言って、それがどうして同じ場所であると主張できるのであろうか。纏向遺跡の時代特定は、「邪馬台国が九州にあって、その同時期に奈良盆地には大和朝廷があり、都を纏向に置いていた」という説を補強するものでもある。このためモモの種を使った年代特定が邪馬台国近畿説を補強するものにはなり得ないのだが、不思議な事にアマチュアだけでなく学者先生までが平然とモモの種の年代特定が邪馬台国近畿説の証拠だという妄言を撒き散らしているのである。
ネットを検索すると、「モモの種で「邪馬台国論争」終止符か」などという記事が見つかった。一部引用しよう。
もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら、(中略)年代も合致することから邪馬台国の場所である可能性が高い。
卑弥呼がモモを食べていたなど、魏史倭人伝には一切記録がない。そもそも倭人がモモを食していたという記載すらない。「卑弥呼がモモを食べていたなら」などの勝手な妄想を元に自説の「可能性が高い」と論じるのは、邪馬台国論争の特徴なのだが、上記はその良い例である。
古来、桃は祭祀に使われてきたから、鬼道を操った卑弥呼がいた証拠、などという主張もネットでは見られたが、これも論理の飛躍である。祭祀に使われたというなら、日本書紀に記載の通り倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)こそ相応しい。崇神天皇の頃、人口の半分が死亡する疫病が流行したが、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が憑いて神を祀るよう宣託を伝えさせたのだ。これによって国家は安定し、やがて崇神天皇は「ハツクニシラス」天皇と称されるようになるのである。その宣託の儀式でこそモモは使われたのであろう。