江戸時代から続いている「邪馬台国論争」であるが、そもそもどんな論争であるのかを中立的立場から解説される事も多い。新聞記事や博物館のサイト、ブログやYoutube解説などでは、両論併記で各説を特徴や長所短所を列挙するスタイルで数多く紹介されている。
しかしながら、客観を装いながらも実は畿内説に有利となるよう誘導する内容が多い。良く目にする解説が、九州説は文献を重視し、畿内説は考古学を重視する、というものだ。この時点で九州説よりも畿内説の方が最新の研究成果を反映しているのだと誘導している。
畿内説が根拠としている物の代表が三角縁神獣鏡の出土状況である。近畿地方で多く発見されているからだ。魏史倭人伝には魏が100枚の銅鏡を卑弥呼に与えた事になっているが、三角縁神獣鏡の中には魏の年号が記された銅鏡も含まれるのだ。ただ、近畿地方で多いとは言え、西日本で広く発見されており、その数は500面以上である。魏が卑弥呼に与えた枚数より多くの銅鏡が日本で発見されている事などから、近畿地方の銅鏡が、卑弥呼が受け取った銅鏡と断定する事は出来ず、論争が続いている。
大事な点は、畿内説の根拠が物証にあり、文献のみで証拠を出せない九州説より有利だとの印象操作に成功している点である。しかしこれは一種のプロパガンダであり、畿内説の考古学重視というのは実は文献否定が目的であり、一方、九州説の方は文献の内容を遺跡遺物で確認するという立場である。
魏史倭人伝には「倭国大乱」との記述がある。考古学的な発見と関連づけるならば、これは九州地方の話である。同時代の武器が多数発掘されているし、防衛機能を持つ環濠集落も多い。一方で近畿地方には倭国大乱を想起させるような遺物は僅少である。倭国大乱の後に一人の女性を選んで女王としたのだから、その場所は大乱のあった地域であり、すなわち九州である。これが考古学的アプローチというべきものだ。
戦争の跡以外にも、魏志倭人伝に記載された産物も考古学的検証の対象となり得る。例えば倭人伝には、養蚕して絹を産出するとあるが、弥生時代の絹は全て九州から発見されている。これも九州説が考古学を重視している一例である。