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朝鮮半島で発見された前方後円墳、任那論争が盛り上らない

朝鮮半島南部、住所で言うと全羅南道海南の北日面方山里に韓国で最大規模の古代の墓と言われている長鼓山古墳がある。この古墳は形状が前方後円墳であり、発掘したところ九州で見られる古墳と同じ様式であったため慌てて一般公開を中止し、今年2月に石室が埋め戻された。コロナのために一般公開できないというのが表向きの理由であるが、任那日本府の証拠とされるのを恐れたのが本音であろう。

これは日本でも一瞬だけ注目を浴びたが、すぐに古い話となってしまったようだ。

朝鮮半島における前方後円墳の存在は以前から知られていたが、歴史上の文献には記載がなく、場所については日本の歴史家の間で任那とされている地域ではなく朝鮮半島南西部に多く分布しているため、非常にミステリアスで、説得力のある仮説もなかった。

ところが、今回話題となっている長鼓山古墳は、任那の一部であったと想定可能な場所にある。やや西に寄り過ぎの観はあるが、現在の教科書から消される前の任那の範囲を正しいと考えればつじつまが合う。

朝鮮半島で倭人の墓であるはずの前方後円墳が多数存在している。これだけでも邪馬台国論争に次いで学者から古代史ファンまで巻き込んだ熱い論争が起きて良い理由となるはずだ。ところがそうはなっていない。朝鮮半島の前方後円墳の埋葬者が誰なのか、倭人なのか百済人なのか、それとも第三国人なのか、興味深いミステリーなのに盛り上がっていないのだ。

その理由であるが、日本史の戦後主流派とされる任那否定論者達の反応があまりにも静か過ぎるためであろう。任那肯定派の説は明確だ。当時朝鮮半島南部は倭に属する任那で倭人が住んでいた、だから埋葬者は倭人である。しかし、論争は反論が無ければ盛り上がらない。任那否定論者は、この件に関しては任那を前提とした意見を全く無視して議論を仕掛ける事もない。ただ、「百済に渡り現地で死亡した倭の貴人を埋葬した」などの仮説について簡単に触れ、日本と百済は交流が盛んで渡来人が多くの文物を伝えた、等と話題を逸らすのである。「これこそ任那の証拠だ」と多くの人が主張しても反論がなく、ただ黙殺されるだけなので議論にならないのだ。

長鼓山古墳が埋め戻されたというニュースは、現代史に任那を復活させる良い機会であった。せめて任那肯定派の中だけでも論争を活発化させたいのだ。ちなみに私の説は、任那四県割譲など、半島での倭人が大和王朝に見捨てられ、少数派に転落していく中で、任那は倭人国家であるという痕跡を残してあえて当時九州で流行していた形式の墓を建設していった、というものである。

【邪馬台国論争論】九州説は文献重視、畿内説は考古学重視という決め付け

江戸時代から続いている「邪馬台国論争」であるが、そもそもどんな論争であるのかを中立的立場から解説される事も多い。新聞記事や博物館のサイト、ブログやYoutube解説などでは、両論併記で各説を特徴や長所短所を列挙するスタイルで数多く紹介されている。

しかしながら、客観を装いながらも実は畿内説に有利となるよう誘導する内容が多い。良く目にする解説が、九州説は文献を重視し、畿内説は考古学を重視する、というものだ。この時点で九州説よりも畿内説の方が最新の研究成果を反映しているのだと誘導している。

畿内説が根拠としている物の代表が三角縁神獣鏡の出土状況である。近畿地方で多く発見されているからだ。魏史倭人伝には魏が100枚の銅鏡を卑弥呼に与えた事になっているが、三角縁神獣鏡の中には魏の年号が記された銅鏡も含まれるのだ。ただ、近畿地方で多いとは言え、西日本で広く発見されており、その数は500面以上である。魏が卑弥呼に与えた枚数より多くの銅鏡が日本で発見されている事などから、近畿地方の銅鏡が、卑弥呼が受け取った銅鏡と断定する事は出来ず、論争が続いている。

大事な点は、畿内説の根拠が物証にあり、文献のみで証拠を出せない九州説より有利だとの印象操作に成功している点である。しかしこれは一種のプロパガンダであり、畿内説の考古学重視というのは実は文献否定が目的であり、一方、九州説の方は文献の内容を遺跡遺物で確認するという立場である。

魏史倭人伝には「倭国大乱」との記述がある。考古学的な発見と関連づけるならば、これは九州地方の話である。同時代の武器が多数発掘されているし、防衛機能を持つ環濠集落も多い。一方で近畿地方には倭国大乱を想起させるような遺物は僅少である。倭国大乱の後に一人の女性を選んで女王としたのだから、その場所は大乱のあった地域であり、すなわち九州である。これが考古学的アプローチというべきものだ。

戦争の跡以外にも、魏志倭人伝に記載された産物も考古学的検証の対象となり得る。例えば倭人伝には、養蚕して絹を産出するとあるが、弥生時代の絹は全て九州から発見されている。これも九州説が考古学を重視している一例である。

 

【古代史】「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が有力と言えるだけの根拠は?

箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという説について。前回記事では、「箸墓古墳の築造時期が卑弥呼の時代に近い」という非論理的な根拠で「箸墓古墳は卑弥呼の墓」と主張している人達がいる事を解説した。今回はその続きで、年代特定以外の根拠について述べる。

(根拠1) 邪馬台国は奈良にあったのだから、箸墓古墳こそ卑弥呼の墓だ

邪馬台国近畿説が正しければ、箸墓古墳を卑弥呼の墓と推定するのは妥当な判断だが、その場合には、あたりまえだが箸墓古墳を邪馬台国近畿説の根拠としては利用できない事になる。つまり、「邪馬台国は奈良に位置しているので箸墓古墳は卑弥呼の墓である。箸墓古墳が卑弥呼の墓なので、邪馬台国は奈良にある」という循環した主張になってしまうのだ。

(根拠2) 箸墓古墳は同時代の古墳としては大規模であり、女王卑弥呼の墓としてふさわしい。

邪馬台国畿内説には、邪馬台国が当時の日本で最大の国であり、卑弥呼がそのトップであったという暗黙の前提がある。近畿地方に邪馬台国を想定する以上、卑弥呼が西日本全体の支配者である必要があるからだ。しかしながら邪馬台国が日本列島の最大の支配国であるとは魏史倭人伝からは読み取れない。

魏史倭人伝の冒頭には倭には100余りの国があったと記載されている。邪馬台国の支配下にある国は30国だ。では残りの70国はどこに属していたのか。邪馬台国の支配下には無い国が70もあったのである。しかも30国連合をもってしても従わせる事が出来ない狗奴国という国もあった。

邪馬台国連合が倭国の最大勢力であったというのは、畿内説の必要条件に過ぎず、前提として採用可能な説ではない。畿内説の妄想に過ぎないのだ。

(根拠3) 箸墓古墳は日本書紀で倭迹迹日百襲姫命の墓とされているが、彼女の事績が「鬼道を能くする」卑弥呼に重なるので、両者が同一人物であるか、卑弥呼の伝承が倭迹迹日百襲姫命の事績と置き換えられたものである。

これは「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説を前提とした理屈である。あるいは、同一人物ではなくとも卑弥呼の伝承を倭迹迹日百襲姫命に当てはめた、という理屈である。しかし日本書紀記載の倭迹迹日百襲姫命と卑弥呼の事績は、巫女のような存在以外に類似性はなく、全く異なる内容である。「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説自体が根拠希薄なのである。また卑弥呼の伝承を置き換えたという説も、両者の事績に違いがあり過ぎるため成立困難である。

(根拠4) 卑弥呼の墓は倭人伝に「径百余歩」と記載されているが、同時代の箸墓古墳は全長280m、円の部分は直径約150mであり、同時期の墳墓としては円の部分の規模が一致する。

「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説の根拠の中では、最も合理的な根拠である。時期と規模、形状が同じであり、かつ同時代に稀な形状・規模であれば、文献の中の墓であると推測するのは妥当だ。ただし、倭人伝では「径」と表現している事から箸墓古墳の前方後円墳ではなく円墳である可能性の方が高いので、ここでの根拠は時期と規模だけという事になる。また「径百余歩」の一歩については諸説あり、不確かさが残る。さらには墓の規模を記載するのに後円の部分だけに着目するのは妥当かという問題がある。前方の部分も含めて全体のサイズを記載するのが通常の感覚ではないだろうか。

結論

邪馬台国畿内説が正しければ、箸墓古墳は卑弥呼の墓として有力な候補である。ところが一般には箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高いから畿内説は正しい、というような逆転した論説が目立つ。一方で箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという根拠は、同時代の墓であるという以上には論理的な説明は存在しない。

【古代史】桃の種が発見されたから箸墓古墳は卑弥呼の墓だと?

邪馬台国論争は江戸時代から続く人気の話題であるが、邪馬台国について記載された魏志倭人伝などの文献だけではその位置の特定はできず、様々な論者が他の文献や考古学的資料を元に間接的に位置を推論している状況にある。そして、その推論というのは、自説を補強する事を目的とした突飛なものが多い。

中にはとても論理として成立していない推論を堂々と主張する人達もいる。その代表が、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとする主張である。論理としては成立していないのに、何故だか耶馬台国近畿説が正しい事を示すものとして宣伝されており、嘘も繰り返せば定着するという戦略なのか、平然と詭弁を続けている状況にある。

箸墓古墳とは、纏向遺跡の一つであり、奈良に存在する。これを卑弥呼の墓と主張するのは、もともとは「近畿説が正しければ」ここが卑弥呼の墓に相応しい、というもので、つまり近畿説を証明するものではない。ところが奇妙な論法が平然と語られているのだ。今回はその中でも「桃の種が発見されたから箸墓古墳は卑弥呼の墓である」という近畿論者の主張を例として触れよう。

「纏向遺跡から発見されたモモの種を炭素年代測定したところ、3世紀前半のものである事が判明した。ところで邪馬台国は3世紀の国である。したがって、邪馬台国の所在地は纏向である。」

纏向遺跡が邪馬台国と同時代であるからと言って、それがどうして同じ場所であると主張できるのであろうか。纏向遺跡の時代特定は、「邪馬台国が九州にあって、その同時期に奈良盆地には大和朝廷があり、都を纏向に置いていた」という説を補強するものでもある。このためモモの種を使った年代特定が邪馬台国近畿説を補強するものにはなり得ないのだが、不思議な事にアマチュアだけでなく学者先生までが平然とモモの種の年代特定が邪馬台国近畿説の証拠だという妄言を撒き散らしているのである。

ネットを検索すると、「モモの種で「邪馬台国論争」終止符か」などという記事が見つかった。一部引用しよう。

もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら、(中略)年代も合致することから邪馬台国の場所である可能性が高い。

卑弥呼がモモを食べていたなど、魏史倭人伝には一切記録がない。そもそも倭人がモモを食していたという記載すらない。「卑弥呼がモモを食べていたなら」などの勝手な妄想を元に自説の「可能性が高い」と論じるのは、邪馬台国論争の特徴なのだが、上記はその良い例である。

古来、桃は祭祀に使われてきたから、鬼道を操った卑弥呼がいた証拠、などという主張もネットでは見られたが、これも論理の飛躍である。祭祀に使われたというなら、日本書紀に記載の通り倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)こそ相応しい。崇神天皇の頃、人口の半分が死亡する疫病が流行したが、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が憑いて神を祀るよう宣託を伝えさせたのだ。これによって国家は安定し、やがて崇神天皇は「ハツクニシラス」天皇と称されるようになるのである。その宣託の儀式でこそモモは使われたのであろう。

【属国論争】日本が百済と新羅を属国にした空白の4世紀

空白の4世紀と呼ばれる時代、日本は朝鮮半島で軍事行動を繰り返し、百済と新羅を属国としていた。

西暦300年代(4世紀)は、中国の歴史書に倭の記載がなく、空白の4世紀と呼ばれている。正確には邪馬台国の記述(266年)から晋書(413年)までの期間である。しかし、この時期は朝鮮側の史料である「三国史記」と好太王碑に倭の記載があり、何よりも「日本書紀」に詳細な記載がある。

さて、朝鮮側の史料である三国史記と好太王碑によれば、

  • 【好太王碑】391年、新羅・百済は高句麗の属民であったが、倭が百済・加羅・新羅を破り、臣民とした。
  • 【百済本紀】397年、阿莘王、太子の腆支を人質として倭に送る(六年夏五月。王與倭國結好。以太子腆支爲質)
  • 【好太王碑】399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。
  • 【新羅本紀】402年、奈勿王、未斯欣を人質として倭に送る(元年三月。與倭國通好。以奈勿王子未斯欣爲質)

三国史記では、倭が新羅を攻めたという記述が非常に多く、朝鮮半島南部を巡る利権争いが数世紀にわたって継続していた事を示している。

ただし、西暦300年の前半は婚姻関係を結び休戦状態にあった。その後、新たな婚姻を巡って関係が悪化し、345年に日本側から国交を断絶する(三国史記の記載より)。その後、4世紀後半を通して日本は新羅との戦争を繰り返し、上述したように西暦391年から400年代初めに新羅と百済を破り、属国とした。

空白の4世紀は、晋が滅亡し、高句麗が楽浪郡を滅ぼすなど、朝鮮半島における漢民族の影響力が減退した時期であり、倭と高句麗が覇権を競った時代だったのであろう。

百済と新羅を属国とした日本は、5世紀を通して、その地位の確定を求め、東晋・南宋・南済・梁と交代していく中華王朝への朝貢を繰り返し、高句麗と百済を除く朝鮮半島南部(六国)の将軍号を得た。

一方、高句麗が百済を滅ぼし、新羅が国力を増大させるなど、5世紀後半には日本の影響力は低下していったと思われる。6世紀の前半には任那を喪失し、その後は百済滅亡まで日本と百済・新羅の外交は歴史に登場しなくなる。

百済と新羅が、それぞれどの程度の期間日本の属国であったかは不明である。しかし日本の立場からすれば、形式的には両国を属国と見做し、涙ぐましい外交努力をしていた事が伺える。その意味で日本書紀における百済・新羅の記述は創作ではなく、日本側の立場を正しく描写したものであろう。

ところで「属国」とは何であろうか。朝貢関係で属国と言うなら、日本は中華王朝の属国であった。支配の程度で決定する場合、古代史の情報量では属国判定は出来ない。しかし王子を人質に送っていた事を基準にすれば、新羅は間違いなく日本の属国だったのである。