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任那日本府の話

任那日本府は、かつて朝鮮半島南部に位置した倭人集団の何らかの組織であり、日本書紀に記述されているものであるが、一時期日本の教科書から消えていた。平成27年に、任那日本府の事が記載されていた中学教科書が検定に合格した。その直後に韓国の首相(朴槿恵時代)が歴史歪曲だとして日本を激しく非難している。

任那日本府については議論が尽されている感があり、ネットにも情報多数あるが、ここで実在の根拠について簡単に整理しておく。

1) 三国志魏書東夷伝における倭の位置

魏志倭人伝で有名な魏の歴史書は、倭国以外の周辺国についても多く記載している。その中で「韓(馬韓、辰韓、弁韓)」の位置について、「帯方郡の南、東西は海、南は倭と接する」とある。南で倭と接するとあるのだから、朝鮮半島南部に倭の勢力があった事になる。「後漢書」にも同様の記載がある。

2) 宋書などに見る朝鮮半島における倭国の形式的・実質的支配

日本書紀では新羅が日本に朝貢していた事になっている。宋書によれば、5世紀を通して倭王がしつこく朝鮮半島での地位を求め、最終的には宋に「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」と名乗る事を認められたとある。この事から当時の日本は少なくとも形式的には朝鮮半島南部を支配していたと言える。また広開土王碑の碑文から、高句麗と倭が朝鮮半島の覇権をめぐって争っていた時期があった事が分かる。

3) 三国史記新羅本記における倭国との戦争

日本側の史料では新羅との戦争についての記載が三韓征伐などに限られるが、朝鮮側の史料である三国史記には倭国との戦争について数多く記載されている。3世紀には7回、約15年に一回だ。日本人の先祖が南から海を渡って日本列島に到着したとは言え、当時の技術で頻繁に海を越えて新羅に攻め入るというのは難しい。朝鮮半島南部に倭の拠点があったと理解するのが妥当だ。日本側の史料に新羅との戦争の記録が少ないのは、任那の倭人が主体となった朝鮮半島での出来事だったからだろう。

以上のことから、任那に何らかの形で倭の行政機関があった事は確かであると言える。おそらく新羅や百済、その他の朝鮮半島南部の国にも出先機関はあったであろう。