戦後の日本は貧困国で、中南米への移民再開を計画していたほどである。一方、1953年に独立したばかりのカンボジアへの移民まで検討されていた事はあまり知られていない。2000年、琉球新報によってカンボジア移民について公開文書で初めて発見したかのように報じられ、あたかも米国や日本政府の陰謀であるかのような論調で書かれたが、実は当時の新聞ではおおっぴらに報じられていた話である。何も沖縄の人だけの話ではなく、日本全体の話だったのだ。
秘密でも何でもなかった話を、あたかも秘密であったかのように誤魔化して政府批判につなげるのは左翼メディアの得意とする所であるが、カンボジア移民のケースは話題になった期間が短かかったために、琉球新報は本当に知らなかっただけなのかもしれない。
それはさておき、シアヌーク国王は1955年12月に友好条約締結のため来日し、その際に日本から計5万人の移民を受け入れると表明した。当時の日本は人口増加が問題となってため、これを大歓迎し、移民への期待が高まった。戦後10年間のGHQ洗脳教育で、日本はアジアから嫌われていると思い込んでいたから、喜びも大きかった。
日本政府はブラジルなど中南米よりも距離的・文化的に近いカンボジアへの移民に期待して、1956年、カンボジア現地に調査団を派遣した。しかし調査の結果、カンボジア側に受け入れ体制が全く整っていない事が判明し、日本からのカンボジアへの移民は実現しなかった。
さて、1956年は、在日朝鮮人への生活保護が大問題となっていた年なのであり、同時に朝鮮半島から日本への組織的密入国が問題となっていた時期でもある。
今から見れば、南米の移民を再開したとほぼ同時期に日本は高度成長への道を歩むのであり、より良い生活を夢みて海外移住した人々にとっては、複雑な気持であろう。特にドミニカ移民などは、後に小泉純一郎首相が政府として謝罪するほど悲惨な人生を歩む事になったのだ。
しかし当時は日本が経済大国になるとは想像できなかった。人々が少しでも豊かになるよう、海外移民も真剣に検討していたのだ。そして、その日本にいて生活保護をむしり取っていたのが在日朝鮮人であり、それを目当てに密入国してくる朝鮮人だったのである。