リベラリズムとテロリズム

最近、ニッポン放送のザ・ボイスを毎週聞いている。ラジオではなくYoutubeであるが、青山繁晴が出演する回である。先週の回では、1月7日に発生したパリの銃撃事件について、バスチーユ広場の事から語り始めた。青山繁晴の話は切り口に意表性があり、話の意外な展開が楽しみなのだが、今回は話はフランス革命の基礎知識を前提としていた。

フランス革命はバスチーユ監獄の襲撃から始まった。1789年の事である。どうしてパリ市民がバスチーユ監獄を襲撃したのかというと、そこに武器があったからだ。なぜ武器が必要だったのか。それは自由のためであった。

「自由、平等、友愛」を掲げたフランス革命は、やがて急進化していき、国王の処刑を経て、ナポレオン独裁へと至る。その間、過激な革命家たちによって行なわれた「恐怖政治」が、今回の「仏紙銃撃テロ」のテロリズムの語源である。リベラリズムが、テロリズムに転じたのであった。

フランス革命は結局、ナポレオンの登場や王政復古につながるが、一方で自由と平等の理念は世界的に普遍な価値として広がっていく。そして、その実現のために命懸けの闘いが繰り返されてきた。時には独裁者を倒すため、時には侵略者を追い返すためだ。

だから、自由・平等というのは人々の血によって勝ち取られてきたものであり、非常に重い意味がある。日本は自由と平等を掲げて何かを勝ち取ってきた事がないが、日清・日露、そして大東亜戦争は日本が欧米列強からの自由と平等を獲得するための闘いであったと言って良いだろう。ただ、福沢諭吉がLibertyを自由と表現する事に躊躇し、結局適切な訳語を作り出せなかったように、日本人にとって自由主義と訳されるリベラリズムの本当の意味は、あまり理解されていないのではないだろうか。

リベラルであるという事は非常に難しい事であり、覚悟がいる。安易なリベラルは独裁者や侵略者、そして同胞からも攻撃を受ける。最近のヘイトスピーチが国家による言論統制を誘発しているのが良い例だし、過激な性描写は漫画などの創作手段の弾圧へと進んでいる。議会の下品なヤジに対する監視は、民主主義の言論空間を窮屈にしている。自由には間合いが必要であり、超えてはならない一線がある。そもそも今回のパリ銃撃テロも自由の行使が招いた悲劇である。今回テロ攻撃を受けた週刊紙も、警察に守られていた。

日本は東アジアの中では最も自由な国であるが、別にリベラルである事を国民が意識しているわけではない。今日の日本では、リベラルという言葉に社会主義思想が融合し、何故か中国や韓国と同じ歴史観を有し、そして憲法9条を信奉する、という人達の事を示しているようである。このため、中国によるチベット民族やウイグル民族への弾圧という、自由・平等に対するリベラルによる危機意識はない。また日本のリベラル派に、中国の軍事的挑発により日本の自由が脅威に晒されているという認識もない。

今日の日本が自由・平等であるのは、日米安保により日本の平和が保たれているからである。もちろん、その反対効果として、対米従属を強いられているので本当の意味での自由ではない。しかし共産党政権下の国々よりも自由・平等である事は事実である。友愛にのみ偏重してリベラリズムの本当の危機を理解していない日本のリベラル派には、もう少し保守派の側のリベラル論を学んで欲しいものである。