表現の自由とテロリズム

昨年末、米国ソニーがサイバー攻撃を受けて情報を流出させ、世界の失笑を買ってしまった。アメリカは北朝鮮の仕業だと断定しているが、現時点では真相は不明だ。その後、ソニーが金正恩を揶揄した映画「ザ・インタビュー」をハッカー集団の脅迫に屈っして上映を取り止めると発表した際、オバマ大統領は直接、上映取り止めを非難した。私はこの映画を見ていないが、くだらないB級映画であるようだ。しかし映画が上映されると、このB級映画は大ヒットしてしまった。

くだらない泡沫映画の上映にわざわざ米国大統領がムキになったのも、それがヒットしたのも、脅迫によって表現の自由を犯すという行為自体に強い反発があったからだ。アメリカは東西冷戦時代に、ことさら自由というものに価値を置いてきたから、どんなB級映画であっても、それを脅迫から守る、という事には敏感だったのだろう。くだらない映画のために会社を危機にさらす事はないと判断したソニーと、くだらない映画でも脅迫は絶対に許さないといするアメリカ世論の違いなのだろうか。

フランスに目を転じると、フランスの週刊紙「シャルリーエブロ」は、たびたび反イスラムの風刺画を掲載して、宗教的緊張の緩和に苦心する西欧の政治家を悩ましてきた。イスラム教徒の増加を望まず移民に反対するような一般的な人でも、宗教を侮辱する事には反対、というのが良い子の態度である。しかし、この下品な週刊紙がテロの襲撃を受けた後、フランス国民は350万人という大規模のデモ行進を行なった。この団結は、本当はテロが見事に成功してしまった事に対するショックが根底にあるのだが、もちろん言論に暴力で報復するというテロリスト達の行動に激しく反発したためだ。

フランス国内のイスラム教徒達は、自分がやったわけではないのに、イスラム教徒という理由で肩身の狭い思いをする事になってしまった。これらのことから、暴力や脅迫は全く逆の効果を生む事が明白だ。

一方で、テロの被害者側だからという理由でシャルリーエブロが無制限にイスラムを揶揄し続けて良いのか、という点は欧米でも議論になっている。そこは健全な所だ。

日本で表現の自由とテロの関係で大騒ぎになったのは赤報隊による一連の事件である。特に昭和62年の朝日新聞阪神支局襲撃事件では2名の記者が殺害された。これは犯人が特定されず、時効をむかえている。この事件では思想や立場を超えてテロが非難されたが、同時に朝日新聞の論調を一層強化する効果があったのではないだろうか。

さて、イスラム関係で思い出すのは、平成3年に筑波大学の五十嵐一助教授が刺殺された事件である。五十嵐助教授は前年、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳している。本の中では、マハウンド(キリスト教徒がムハンマドをからかう時に使う、Mahound)がアラー以外の女神を認めるシーンや、ムハンマドの12人の妻と同じ名前の12人の売春婦を登場させるなど、預言者をからかうものとしてイスラム社会の反発を招いた。そしてイランのホメイニが作者に対する死刑宣告(ファトワー)を出し、その中で五十嵐一が殺害されたのである。この事件は犯人が特定されなかったとは言え、本来なら表現の自由に対する重大な挑戦であるという事で、今回の米仏と同じような動きがあっても良かったはずである。しかし、この事件はマイナーなものとして特に騒がれる事なく時効をむかえ、忘れ去られてしまった。

ちなみに、五十嵐一殺害事件と同じ年、朝日新聞の植村記者は従軍慰安婦に関する捏造記事を掲載した。

最近では植村元朝日新聞記者に対する脅迫事件が発生している。そもそも彼は捏造記事後に沈黙し続けてきたので表現の自由に対する攻撃とは言えないのだが、一連の脅迫事件により、左翼が結集して従軍慰安婦問題に対する反転攻勢の動きを見せるという効果をもたらしている。脅迫は目的を達成せず、反対の効果を生むという事を理解しない馬鹿どものせいである。

最後になるが、桑田圭介のパフィオーマンスが表現の自由とからめて話題となっている。歌手から反骨精神を除いたら何も残らないのだが、彼は日中首脳が握手をするタイミングで、中共によるウイグルやチベットの弾圧を批判する歌を歌えるだろうか。