フランスの週刊紙「シャルリーエブロ」を襲撃した犯人はアルジェリア系フランス人であった。アルジェリアは仏の植民地であった過去があり、その影響で仏には多数のアルジェリア系移民がいる。
日本では、「過去の植民地支配には謝罪しなければならない」という論調があるが、フランスはナチスに勝利し、日本を裁いた東京裁判以降も植民地支配を続けていた。
アルジェリアは仏本国がナチスに占領された直後は、ナチス降伏下のヴィシー政権の植民地であったが、すぐに連合国軍に降伏し、この地でドゴールのフランス国民解放委員会が結成された。ちなみに仏領インドシナはヴィシー政権と日本の間で結ばれた協定にもとづき、日本軍が進駐している。これは日米開戦の要因ともなった。
さて、パリは1944年8月にドイツ占領から解放され、翌1945年5月8日、ドイツは連合国軍に降伏した。これは日本の教科書にも書かれている事である。一方、通州事件と同じく、なかなか日本の歴史教育では登場しない事件が同じ5月8日にアルジェリアで発生している。セティフ(Setif)の虐殺と呼ばれるものだ。独立を求めるアルジェリア人が仏軍に弾圧され、多数の死者を出した。被害者の数については不明であるが、千から万単位のアルジェリア人が虐殺されたようである。セティフの他、ゲルマという町でも虐殺が起きたようだ。当然の?事であるが、この事件で戦勝国フランスは誰からも裁かれていない。
セティフの虐殺は、その後の独立運動の遠因になった。
1954年にアルジェリア民族解放戦線(FLN)が結成され、フランスからの独立運動を開始した。昭和29年、つまり戦後9年にして、フランスはまだ植民地支配を続けていたのである。この年、フランスはアジアではインドシナの独立を抑えるべく、ベトナム戦争を続けていた。しかし1956年になって、ついにベトナムから撤退する事になる。
日本はというと、李承晩ラインのせいで日本の船舶が韓国に拿捕される一方、増え続ける韓国からの密入国者に頭を悩ましていた時代である。
アルジェリア独立戦争は、その後数年間続き、ついにアルジェリアが独立を果たしたのは1962年である。日韓交渉が終盤にさしかかり、一体何の名目か、植民地支配への賠償?とかいう事で、日本が有償、無償あわせて韓国にいくら払うかというのが議論になっていた時代だ。
アルジェリア戦争では、フランス軍による残虐な行為が多数あったとされる。しかし詳細な内容は長く歴史から隠蔽されていたようで、元FLN活動家のアルジェリア人女性がル・モンド紙で拷問の証言をしたのは2000年の事だ。フランス軍のアルジェリアでの行為はナチス以上であった、という歴史家もいるが、残念ながら私には判断がつかない。ネットの情報だけでは限界があるようだ。
ところで、2012年はアルジェリア独立50周年であった。フランスのオランド大統領は、アルジェリアを訪問し、仏軍の野蛮だった行為について具体的に言及し、それを認めた。しかし謝罪する事はなかった。