共感できない I am Kenji

I am Kenjiという表現が、後藤健二氏の解放を祈る人達の間で広がっているというニュースが多く流されている。

彼の解放を望む世論の力を見せるという意味でも、一つの意義のある動きなのだろう。

だが、個人的には、この動きには共感できない。

フランスのテロの後、「私はシャルリー」という言葉が広まった理由は明確だ。テロに対する強い抗議、又は表現の自由を脅かす者に対する強い抗議の意思が、フランス国民を一方向に団結させ、世界がそれに共感したからだ。

ところが、今回の日本人人質事件では、早々と左翼の連中が安倍政権批判を公然としてしまった事から、I am Kenjiが、果たしてISISに対する抗議と、今回の蛮行に対する日本国民の団結を示しているものとは感じられないからだ。

つまり、I am Kenjijという標語を掲げる人達が、安倍政権批判のための団結かもしれないし、身代金を払ってでも解放すべきだという意見の団結なのかもしれないのだ。

実際にI am Kenjiの標語を掲げてソーシャルメディアで発信している人達がどのような思いなのか、今のところ私には分からない。現在、I am not Abe なるプラカードを広めようとする連中がいる。もし、この連中と I am Kenji を実践している人、好意的に紹介している人が同じであるとすれば、答は明確である。つまり、 I am Kenji はテロ批判ではなく、解放への祈りでもなく、単なる安倍政権批判なのだ。

このような疑いがあるため、どうにもI am Kenji なる今回の動きには共感できないのである。左翼による安倍政権批判がここまで酷くなかったら、今回の標語も違った意味になっていたであろう。

むしろ、ネット上でISIS側の動画にふざけた加工をして発信している連中の方が、よっぽど今回の蛮行に憤慨してる正直な表現であるような気がするのは、極端な考えであろうか。