竹島問題は単なる領土紛争ではない

竹島については、よく「小さな島だから韓国に譲れば」という意見が聞かれる。ちっぽけな島なので経済的に利点は無いとの発想だが、竹島が韓国軍に支配されるに至った経緯を無視した、無知からくる意見である。

1952年1月、李承晩韓国大統領は「李承晩ライン」を設定し、竹島をラインの韓国側に設定した。日本は前年の1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約に署名していたが、その発効は1952年4月28日の事であり、正に日本が主権を回復する直前の出来事であった。

その後、韓国は李承晩ライン侵犯を理由に日本漁船を多数拿捕し続けた。1952年以降、日韓漁業協定の締結により李承晩ラインが廃止される1965年まで、233隻、2,791人が拿捕され、韓国に抑留された。このうち8人が拿捕・抑留の過程で死亡している(3,929人抑留、44人死亡という数字もあるが、時期の取り方による違い)。長い者で3年間、韓国の外国人収容所に抑留された。

日本の主権回復後から、日韓基本条約の交渉が長く続く事になるが、日本側は拿捕・抑留された漁民の解放も平行して交渉しなければならなかった。

韓国側は、漁民解放の条件として当時大村収容所にいた韓国人の釈放を要求した。これら韓国人(朝鮮人)は密入国と悪質犯罪の罪により収容されていたもので、これを釜山収容所に不当に抑留されている日本人漁民992人の解放と引き換えにする事は出来ない。しかも日本人漁民は日本への送還であるが、韓国人は日本国内での釈放なのである。

結局日本側は漁民解放の世論もあり、日本側が折れ、韓国人474人の国内釈放に応じた。1958年の事である。

そもそも、どうして日本人漁民が拿捕されたのだろう。それは竹島周辺はずっと日本の領土であり、周辺で漁をする事は、昔からずっとやってきた自然な経済活動だったからだ。ところが韓国の竹島侵略により、日本人漁民は韓国に抑留され、家族は稼ぎ手を失い、解放後も結局経済活動の場まで失ってしまったのだ。