八紘一宇が禁句なら平和だって使えない

もう先月の話になるが、三原議員が国会の場で日本が昔から大事にしてきた価値観として八紘一宇の思想を紹介した。これにはメディアや左翼言論人が猛反発するとともに、保守系の中にもとまどいが生じたようだ。

八紘一宇というのは、「世界は一家」というある種のお花畑的平和思想の一つであるが、戦争中にアメリカがプロパガンダの中で、タコの形をした日本の政治家が八本の足で世界を侵略してく描画とともに広めた概念が一般的となっている。これは、戦後になって戦中のプロパガンダをあくまで正当化し継続していったアメリカが日本に押し付けた概念だ。八紘一宇は、戦後の米軍占領下において、公的な使用を禁止された。

個人的には、八紘一宇を礼賛するつもりもないし、左翼のように敵視するつもりもない。それは、ある一時代に「グローバリズム」を意味する用語として利用されたのであり、今日のグローバリズムが良い面も悪い面もあるように、また人によって定義がまちまちであるように、それは多様な側面をもつ用語なのである。

しかし、左翼が主張するように、八紘一宇が軍国主義のスローガンとして利用された、という理由で、まるで言論弾圧のようにその使用を禁ずるような動きは明らかにおかしい。ある用語が戦争を正当化するため、あるいは戦意高揚のために利用された、という理由で今日の使用が禁じられるなら、「平和」の2文字こそ、最も忌むべき単語ではないのか。戦争というは、「平和」を理由に戦われてきたからである。

さらに言うと「社会主義」も危険用語である。ソ連のチェコへの軍事侵攻は「社会主義」理念のために実施された。「共産主義」もそうであり、文化大革命やらカンボジアの大虐殺を引き起こした思想であるから、八紘一宇を批判するほどの人は決して口に出してはならないだろう。自由や平等、といった概念すら、戦争を正当化するために利用されてきたが、それらが禁句となる事はない。

八紘一宇が問題となるのは、日本人が使える日本語を次々に攻撃して国民を萎縮させようとする左翼や外国勢力の戦略によるものだ。支那という表現を消し、バカチョンカメラという単語はいつの間にか差別用語扱いされるようになった。最近では「粛々」という言葉も使ってはいけないらしい。

さて、今日では八紘一宇的な思想をするのはむしろ左翼の方だ。つまり、「世界は一家」なのだから日本はその富を隣国に与えよ、というものだ。それはギブ・アンド・ギブのグローバリズムであり、日本を無国籍国家にしてその伝統を破壊し、世界中に人に日本を開放しようという思想だ。もちろん、中国や韓国にとって都合の良い話であり、おおっぴらな対日工作の一貫と見なしても良いだろう。

保守系の人の中には、戦前の思想を大事にすべきという人もいるが、時代も違うし、むしろ保守派こそ戦前の日本の思想からは脱却すべきだ。なぜなら、戦前の思想というのは、白色人種に対して有色人種が対等の地位になる、というのがあり、この事から八紘一宇やら大東亜共栄圏なる理念が誕生した。しかし戦後アジアやアフリカの人々が独立意識に芽生えた事で日本の役割は終了したのである。今日では全く状況は異る。八紘一宇は、歴史の一時代の思想としては意味があるが、今日の日本では重要な意味はない。