チャウシェスクと日本共産党の親密な関係

チャクシェスク大統領は1967年から1989年までルーマニアの元首であった。1968年にソ連がチェコに侵攻したプラハの春事件では、ルーマニア軍を派遣せず、ソ連を批判するなど、当初は西側寄りの姿勢を見せ、ソ連がボイコットしたロサンゼルスオリンピックにも参加している。

日本共産党はルーマニア共産党とは、とりわけ親密な関係にあった。1980年代も後半になりペレストロイカがはじまると、日本共産党も露骨な社会主義礼賛は出来なくなるが、それでもルーマニア共産党とは積極的な交流を継続していた。

1989年、平成元年と言えば、東欧革命により社会主義諸国の政権が次々に倒れ、ベルリンの壁が崩壊し、最後にはルーマニアのチャウシェスク政権が倒れた年である。日本共産党は、その年のはじめ金子書記局長をルーマニアを派遣し、チャウシェスク大統領に宮本議長の親書を渡している。金子書記局長はチャウシェスク大統領と会談し、日本共産党とルーマニア共産党の友好を確認した。1月17日のことである。

その後、6月4日に天安門事件が発生したことから、共産主義に対する世間の目が厳しくなっていく。また、同じ6月にポーランドで非共産主義の政権が発足。このような背景から、日本共産党はその後の東欧革命で政変が起きる度に、「共産党は以前から○○を批判してきた」と強い調子で弁明するようになる。

バルト三国で市民デモが発生するなど、社会主義国のあちこちで民主化を求める市民の動きが活発になっていくなか、日本共産党は8月に再度ルーマニアに金子書記局長を派遣し、ルーマニア解放45周年に参加している。そして、金子書記長は8月27日にチャウシェスク大統領と会談、両党の友好関係を再確認している。

しかし、9月に入ると東欧革命は急展開を見せる。東ドイツ国民がハンガリー経由で大量に西ドイツに出国、そのハンガリーでは、10月23日に新憲法が制定され、ハンガリーの社会主義体制は崩壊した。東ドイツも大規模デモが各地で発生、11月10日、ついにベルリンの壁が崩壊した。

日本共産党がルーマニア共産党をいつ見限ったのかは不明だ。しかし、ベルリンの壁崩壊後、11月20日に開幕したルーマニア共産党第14回に、緒方靖夫幹部会委員が日本共産党から出席している。イタリア共産党はこの党大会には欠席した。日本共産党は、この党大会にメッセージを送っている。

プラハで大規模なデモが発生している最中の11月23日、緒方靖夫幹部会委員はチャウシェスク大統領と会談を果す。

12月3日には体操選手のコマネチがアメリカに亡命。ここに来て日本共産党も観念したに違いない。ルーマニアが提唱した国際会議に反対を表明、ルーマニア共産党との関係が悪化しているとのアリバイ工作を始める。

しかし赤旗読者以外には共産党の必死の動きは分からない。日本共産党の幹部がこの年に3度もチャウシェスク大統領と会ったことも多くの日本人が知らないように、最後にルーマニア非難の態度を取ったことも多くの日本人は知らない。

12月16日にティミショアラでルーマニアでは治安警察がデモ隊に発砲。日本共産党は19日に事実を公表するようルーマニアに電報を送り、12月21日には社説で、本来の社会主義は国民を弾圧しない、など事後の動きに備えた。

しかし、12月22日、劇的な革命によりチャウシェスク政権は崩壊。クリスマスの日にチャウシェスク夫妻は処刑された。

ルーマニアだけは日本共産党にとっての正しい社会主義のモデルであったが、1989年は友好関係にあったチャウシェスク大統領の処刑で終わってしまった。