天安門事件とは、1989年6月4日、民主化を求めて天安門広場に集まった民衆に対して、人民解放軍が武力で鎮圧した事件である。
西側諸国は中国に対する経済制裁を決定し、日本もそれに追随する形で円借款供与を中断した・・・・。は?
今から考えると全く理解に苦しむが、当時、日本は円借款という形で中国にお金を貸して、中国のインフラ整備に大きな貢献をしていた。天安門事件は、その動きに転機をもたらすものであった。
転機をもたあらすはずだったのだが、当時から存在した媚中派が早期の関係回復に動き出す。なんと同じ年の9月17日には自民党の伊東正義を団長とする「日中友好議員連盟」が訪中したのだ。伊東正義は小平及び李鵬首相と会談し、日中友好関係を再確認した。
公明党や社会党は、市民に銃口を向ける中共が大好きであるから理解できるが、一体、どうして自民党が国益を損ねてまでも天安門事件の首謀者たちを助けるような訪中を敢行したのだろうか。
片方で天安門事件を引き合いに日本共産党を批判しつつ、片方では中国利権に群がるため、自民党も公明党も、東欧民主化の歴史的意義も理解せず、媚中ぶりを振り撒いていたのである。
さて、中曽根以降、日本は竹下、宇野、海部、宮澤と総理大臣に恵まれず、国力を低下させていく。
海部政権は翌年には円借款の再会を決定。1991年8月10日、海部総理は西側の首脳としては始めて訪中し、天安門事件を水に流した。これ以降、お墨付きを得た西側企業が中国の改革開放路線に乗って投資を活発化、中国を経済成長させていく事になる。
その翌年、海部俊樹の次の宮澤喜一政権は天皇陛下訪中を実現させる。1992年10月の事である。その翌年は河野談話が出された。そのような時代であった。
中国を資本主義に慣れさせ、国際社会のルールに馴染むようにしていくことの方が、経済制裁で押し込むより効果があると考えたのかもしれない。もちろん、媚中派議員はそのような遠大な思想があったわけではなく、単に中共のイヌであったに過ぎない。
しかし、そのような考え方が如何に間抜けな発想であったかというのは、その後の中国の反日ぶり、アジアでの軍事覇権の拡大を見れば明きらかである。日本が西側諸国の先陣となって天安門事件を不問にしたところ、中国は日本に対して反日攻勢を仕掛けてきたのである。
今年になって要人の中国詣でが相次いでいる。二階俊博は韓国に次いで中国に大使節団の長として訪問した。
中共は、日本が譲歩して歩み寄った直後に、日本に対して高圧的な要求を開始し始める。これが歴史に学ぶという事である。日中友好論者は天安門事件の事も水に流し、日本側が妥協すれば日中対立は解消されると信じているようだが、歴史をきちんと勉強してもらいたものだ。