「我こそは民意である」とうそぶく左翼メディアの思い上がりと特権意識

三権分立と第四の権力

百田尚樹、あるいはいわゆる報道威圧問題について、マスコミが強烈な抗議を表明し、現在も尾を引いている。6月25日に開催された自民党の「文化芸術懇話会」での百田氏と自民党議員の発言が、国家権力によるマスコミの弾圧だとされているのだ。

自民党は関係者も処分して安倍首相も平身低頭、全く自民党側が悪いという事にして、関係者は鉾を収めようとしている。政治家としては当然の事であろう。日本においては、マスコミが巨大な力を有しているからであり、ゴメンと頭を下げるのは、熟練した政治家の対応である。

かつて国家権力は絶大で、反対勢力は粛清される時代が続いた。権力批判は命がけであったが、近代に自由の思想が広まり、現代においては、報道というものは国家権力に対抗する国民の側の自由の砦のような扱いとなっている。

独裁国家では権力が報道を利用して民意をコントールする。だから、民主主義国家においては国家権力が報道に干渉してはならないという原則が出来る。しかしながら、いざ民意によって政権が樹立される民主主義が定着してみると、その民意を左右しうる報道が持つ巨大な力を誰がどのように利用するのか、というのが問題となる。

「報道威圧」問題に関して各メディアが様々な抗議などを表明しているが、いろいろ見てみると、「日本新聞労働組合連合」の声明がどうもマスコミ人間の本音のようである。

(沖縄タイムスと琉球新報は)昨年の知事選や衆院選で明確に示された「辺野古への新基地建設反対」「集団的自衛権の容認反対」という民意を反映し、市民目線の論調を守り続けている。

つまり、自分達こそは民意を代表しているのであり、自民党政権の政策に批判的になるのは当然だ、という事なのであろう。

また、沖縄タイムスの武富和彦編集局長は、「戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道機関としての姿勢のベースにある。」と言っているが、マスコミが「戦争につながる」と判断した内容を報道しないということが、「不偏不党、言論の自由を重んじ、公正な取材活動と報道(琉球新報、潮平芳和編集局長)」であると、どうして言えるのか。

そもそも、日米軍事同盟を否定し、中国に媚びる道のほうが「戦争につながる」のである。安保法制を否定し、米軍を日本から追い出し、憲法9条を存続させる事の方が、より戦争に近いのである。

しかし、日本のメディアはこのような意見は封殺し、自らが正義と決めた思想を「民意」とすべく、恣意的な報道をし、時には朝日新聞のように捏造までやってのける。

マスコミが絶対潰すと決めたら、たとえ選挙で大勝して就任した首相でさえ震えあがる。三流作家のような個人などは簡単に潰せる。今は利用価値があるから潰さないだけだ。

今回の騒動が明きらかにしたのは、本来は味方同士になるはずのマスコミと国民の間の大きな乖離だ。マスコミが巨大な権力である事が、はっきりと認識されたのだ。今後は日本でもアメリカのようにメディア監視団体がいくつか出来るであろう。今までネット内だけで消化されていたようなメディアの話題が、表に出てくるようになるのである。