ベルリンの壁は1989年11月10日崩壊した。当時の日本共産党は、ソ連や東欧の社会主義は本物ではなく、「科学的社会主義」なる理想の社会主義が別にあるのだとして、社会主義諸国の崩壊を前にして痛々しい強がりを見せていた。
しかし、大部分の共産党員にとって、当時崩壊していった社会主義諸国こそが、共産党が礼賛する社会主義だったのである。ベルリンの壁崩壊以前には確かに共産党支持者だった自分が言うので間違いはない。あの当時の共産党の強弁が「負け犬の遠吠え」に聞こえていたのは、世間一般ではなく、むしろ共産党支持者たちであった。
以下の記事は1989年11月12日の赤旗に掲載されたものだ。ドイツ人の話を引用する形とはなっているが、「これからが本当の社会主義」というのは、むしろ日本共産党の強がりを象徴しているものだ。
これからが本当の社会主義
声はずます東独の友人 三浦特派員
二十八年余りにわたり東ドイツ市民の西側への通行を固く拒み、欧州の東西分割の象徴だった「ベルリンの壁」がたんなるコンクリートの板となった十日、一九八二年まで赤旗特派員として六年間生活したベルリンの友人たちの声は、電話の向こうで一様にはずんでいました。
「きょうの午後一時にちょっと西(ベルリン)をのぞいてきたよ。当局が本気で外国旅行を許可したのかどうか、この身で試してみたかったんだ。大変な混雑だった。ほとんどの人が朝までに東に帰ったようだ。いつでもいき来ができるとなれば、逃げ出したくもなくなるよ」と一人は語りました。
サッカーの東西ドイウツ対抗戦で西のチームを応援していた友人は、「これから本当の社会主義建設が始まる。君の党がいっている民主主義的な社会主義だ。もしクレンツ(党書記長)が国民の要求を無視したら、何度でも該当デモをやるよ」といいます。
この日の夕、クレンツ書記長も参加して開かれた野外党員集会から帰ったばかりという社会主義統一党員の一人は、「集会では下部党員から臨時党大会を早期に開け、という意見が強く出された。来月開かれることになった党全国協議会は、人事問題を決めることはできない。ホーネッカー(前書記長)時代ノ中央委員の中から最高指導部である政治局員を選んでいたのでは、国民の信頼を得ることはできない。われわれが選ぶまじめな代議員の中から中央委員を選出したいのだ」と力説しました。
インテリの一人はいいます。
「西側の指導者たちはさかんにドイツの再統一を口にしているが、東ドイツの一般市民からは、そんな声はほとんど聞かれない。多くの国民は真の意味での社会主義を建設したいと望んでいる。確かに西側に自由に旅行できるとなれば、外貨の問題も出てくる。また、持ち出し・持ち込みできるものもある程度の制限も必要だろう。これは西ドイツとも相談し、われわれも知恵をしぼらなければならないことだ。いま迫られているのは根本的な経済改革だ。ソ連のようにテンポが遅ければ新たな問題が出てこよう。しかし、民主主義が確立されればその心配もない。現時点では圧倒的多数の国民がやる気十分だ」
ドイツは翌年1990年10月3日に再統一され、「民主主義的な社会主義」なるものが建設される事はなかった。