今年の長崎原爆記念日は、集団的自衛権行使容認の閣議決定を批判する勢力に政治的に利用される結果となったようである。田上市長の「平和宣言」なる政治声明には、事前の報道で予想されたよりは抑えられた内容ではあったが、あたかも安倍政権が平和に反する政治を行なっているかのような印象を与えるものであった。
そもそも原爆記念日に「平和祈念式典」なる集会を開く事自体おかしい。広島では14万人、長崎では7万人の民間人が原子爆弾によって殺害されたのである。本来、この日は原爆被害者が味わった地獄の苦しみを哀れみ、死者の魂を悼み、心の平安を祈る厳粛な日であるはずだ。
「平和」というものがあくまで高度に抽象的な概念に過ぎぬのであれば、それも良い。しかし広島も長崎も、極めて具体的な政治活動に利用されてきたのが実態だ。
広島、長崎の原爆を政治利用している集団に原水協(原水爆禁止日本協議会)と原水禁(原水爆禁止日本国民会議)がある。これらは路線の対立で分裂し、あまりの政治色の強さに凋落傾向にあるが、その思想は脈々と今日の平和団体に引き継がれている。そして毎年のように、原爆による被害者を政治利用しているのだ。
原爆で全身を焼かれ苦しんで死んでいった死者達が、天国で安倍政権の集団的自衛権に関する閣議決定に反対しているのだろうか。かつて地上で生活してた時の彼等の祖国が、今や中国や北朝鮮の核ミサイルの射程距離内にあって軍事的圧力を受けている中で、戦後の平和ボケした政治主張に賛同していると言えるだろうか。
平和祈念式典での平和の誓いなるものは、原爆による死者の魂には届かない。原爆で死んだ人達に思いを馳せる時には、むしろ次のような謝罪と誓いが必要なのだ。
我々は、残虐な手段で広島・長崎の人達を殺害したアメリカに対しては復讐する事が無い事について許しを乞わなければならない。彼等が生きていた時代の日本を、戦後長い間貶めてきた事を謝罪しなければならない。そして、二度とこの国土に原爆が投下される事が無いよう、あらゆる手段を講じる事を誓わなければならないのだ。