夫婦別姓は名字廃止と同じ

夫婦別姓とは、東京都千代田区を神奈川県千代田区と呼ぶようなものである。

姓(Family name)は家族を識別する呼称であり、名(Given name)は家族内で個人を識別する呼称だ。姓と名の組み合わせで本人を特定する名前となる。

姓は、苗字、名字、氏、などと言われるように日本の歴史では微妙に異なる役割を果してきた。姓は元来役職名であり、氏は朝廷が血縁による同族集団に与えた名称である。時代が下り、同族集団は分割され、次男以降は分家を始祖とする新たな一族が形成され、名字が数代前から継続する一族を示す名称となった。ただし、名(Given name)の上につけるものは、氏・姓(かばね)、屋号、通称、官名などを組み合わせたものが利用され、襲名の文化もあり、個人を特定する機能として名前は多様であった。

明治時代になり、全国民に苗字が許され、その後義務化されたが、当初は血統主義の観点から結婚後も女子は先祖の苗字を継続使用する事が義務づけられる。一方、家族単位で同一のFamily nameを持つ西欧思想の流入と、血統主義から世帯主義への転換により、家族単位で苗字が定められるようになった。ようやく様々な機能を持っていた名字の意義が一本化されたのである。

さて、夫婦別姓は、中華圏で一般的であるように元来は血統主義思想に基づくものである。一方で現代の夫婦別姓主張に血統主義思想はないと思われるが、その場合は名(Given name)の前に読まれる名字とは一体何の意味があるのだろうか。夫婦の名字が違う以上、それは家族につけられた名称ではない。

先祖伝来の大切な名字だから改姓したくない、というのは血統主義である。珠世さんが金さんと結婚して都合が悪い、というなら適切な名字に改姓すれば良い。ペンネームやら通称やらが許容されているから、改姓が仕事の継続に不利という理屈は成立しない。

夫婦別姓により、名字が家族を示す名称を意味しないとなると、名字の存在意義な何になるだろう。それは単に下の名前だけだと日本語として格好悪いから、上の名前として置く、というような表現の問題である。

伝統だから、社会生活に名字は必要だから、パスポートにFamily nameを記載する欄があるから、というのは本質的ではない。というのは一旦夫婦別姓を認めれば、そもそも原理的には姓など不要であり、個人を特定するための名前が一つあれば良いという結論になり、現代社会で構築された姓の存在を前提とした制度自体がやがて変革の必要性に直面するからだ。

夫婦別姓では、山田花子は山田(姓)+花子(名)ではなく、山田花子という単一の名称となる。役割を失った名字は廃止され、やがて太郎や次郎だけが名前となり、左翼が毛嫌いする世帯単位での行政は消え、個人が直接国家に所属するSFの世界が実現するようになるだろう。