空白の4世紀と呼ばれる時代、日本は朝鮮半島で軍事行動を繰り返し、百済と新羅を属国としていた。
西暦300年代(4世紀)は、中国の歴史書に倭の記載がなく、空白の4世紀と呼ばれている。正確には邪馬台国の記述(266年)から晋書(413年)までの期間である。しかし、この時期は朝鮮側の史料である「三国史記」と好太王碑に倭の記載があり、何よりも「日本書紀」に詳細な記載がある。
さて、朝鮮側の史料である三国史記と好太王碑によれば、
- 【好太王碑】391年、新羅・百済は高句麗の属民であったが、倭が百済・加羅・新羅を破り、臣民とした。
- 【百済本紀】397年、阿莘王、太子の腆支を人質として倭に送る(六年夏五月。王與倭國結好。以太子腆支爲質)
- 【好太王碑】399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。
- 【新羅本紀】402年、奈勿王、未斯欣を人質として倭に送る(元年三月。與倭國通好。以奈勿王子未斯欣爲質)
三国史記では、倭が新羅を攻めたという記述が非常に多く、朝鮮半島南部を巡る利権争いが数世紀にわたって継続していた事を示している。
ただし、西暦300年の前半は婚姻関係を結び休戦状態にあった。その後、新たな婚姻を巡って関係が悪化し、345年に日本側から国交を断絶する(三国史記の記載より)。その後、4世紀後半を通して日本は新羅との戦争を繰り返し、上述したように西暦391年から400年代初めに新羅と百済を破り、属国とした。
空白の4世紀は、晋が滅亡し、高句麗が楽浪郡を滅ぼすなど、朝鮮半島における漢民族の影響力が減退した時期であり、倭と高句麗が覇権を競った時代だったのであろう。
百済と新羅を属国とした日本は、5世紀を通して、その地位の確定を求め、東晋・南宋・南済・梁と交代していく中華王朝への朝貢を繰り返し、高句麗と百済を除く朝鮮半島南部(六国)の将軍号を得た。
一方、高句麗が百済を滅ぼし、新羅が国力を増大させるなど、5世紀後半には日本の影響力は低下していったと思われる。6世紀の前半には任那を喪失し、その後は百済滅亡まで日本と百済・新羅の外交は歴史に登場しなくなる。
百済と新羅が、それぞれどの程度の期間日本の属国であったかは不明である。しかし日本の立場からすれば、形式的には両国を属国と見做し、涙ぐましい外交努力をしていた事が伺える。その意味で日本書紀における百済・新羅の記述は創作ではなく、日本側の立場を正しく描写したものであろう。
ところで「属国」とは何であろうか。朝貢関係で属国と言うなら、日本は中華王朝の属国であった。支配の程度で決定する場合、古代史の情報量では属国判定は出来ない。しかし王子を人質に送っていた事を基準にすれば、新羅は間違いなく日本の属国だったのである。