パンチェン・ラマ11世拉致事件から20年

以下は、ダライ・ラマ法王日本代表事務所のホームページからの転載。

ダライ・ラマ14世がゲンドゥン・チューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマ11世として公式に認めたのは、1995年5月14日のことだった。その日からすでに7年以上が経過している。少年は、認定発表の日から何日もたたない5月17日、両親とともに姿を消した。中国の警察に拘引されたといわれている。

イギリスはAIIB参加で中国の軍門に降ったかと思ったが、BBCニュースではパンチェン・ラマ11世の事を伝えている。対して日本のメディアは沈黙だ。朝日も産経も、時事通信などの配信記事を右から左に(左から右と言うべきか?)に流しているだけなので、時事通信が伝えなければ、何も伝えないのだ。今年は戦後70年という表現ばかりが出てくるが、パンチェンラマ11世失踪から20年目の節目に沈黙していたのは変ではないか。

パンチェン・ラマというのは、簡単に言うとチベット仏教にとってダライ・ラマに次ぐ地位であり、次のダライ・ラマを認定する立場にある。そして現在、20年前に失踪したパンチェン・ラマ11世の他に、中国共産党が選んだパンチェン・ラマ11世が存在する。後者の名前はギェンツェン・ノルブ。その違いをBBCは以下のように要約している。

ゲンドゥン・チューキ・ニマ

  • ダライ・ラマによって1995年5月14日にパンチェン・ラマ11世と認定された
  • その3日後に中国当局によって拘束された
  • 中国は「分離主義者による誘拐から守るため」彼に関する情報、所在などをほとんど公開していない
  • 外国人との面会は禁止されており、中国によると、彼は学校に行き、中国で普通の生活をしている
  • 中国によると、彼の両親は政府に雇用され、彼の兄弟姉妹は大学にいるか、働いている。

ギェンツェン・ノルブ

  • 6歳の時、北京政府によりパンチェン・ラマの生れ変りとして選ばれる
  • 中国共産党員の息子である
  • 幼少のころは北京で過し、仏教を学ぶためチベットに戻った
  • 清朝が1792年に強制するようになった方法、金の壺からくじを引いて決定する方法(金瓶掣籤)で選ばれた
  • 中国本土以外では、2012年4月に香港で1000人以上の僧を前に登場したのが最初である

チベットは1950年、中国共産党に軍事征服されてしまい、ダライ・ラマ14世は1959年にインドへの亡命を余儀無くされた。中国は清王朝時代の関係を根拠に、チベットを中国の領土と主張しているが、現地の報道がないため状況が掴めない。二階俊博は真っ先にチベットに訪問すべきではなかったのか。