チャウシェスクと日本共産党の親密な関係で指摘したように、日本共産党はルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊する直前まで親密な関係を築いていた。今日はその補足資料である。下記の記事は1989年1月25日の記事である。昭和天皇崩御後で、共産党が天皇制批判と昭和天皇に対して戦争犯罪者として個人攻撃を激化させている最中、独裁者チャウシェスクとの親交を温めていたのである。同年12月、チャウシェスクは民主主義革命により捕えられ、クリスマスの日に処刑された。
有働正治
十四日、成田空港をたち、二十二日帰国の日程で、ルーマニアを訪問した金子書記局長に同行した。ルーマニア訪問ハ一行のなかでは、私だけがはじめてであった。東部を黒海に面し、総延長三千キロ近いドナウ川の流れの三分の一を抱えたルーマニアまでの距離は、途中、西独のフランクフルト経由でおよそ十五時間ほどかかる。距離的には、遠くへだてている。しかし、訪問を通じもっとも痛感したことは、両党は同志的な友情という点では、距離の通さとは逆に、大きな共通点で結ばれているということであった。
熱心にメモしその場で応答
金子書記局長の今回の訪問の目的は、宮本議長の親書伝達と協議のためだった。金子書記局長のルーマニア訪問は、昨年十二月にも予定されていたが、日本の国会が重要問題で延期されてきたので、ことしになったものだった。
チャウシェスク書記長との会談は十七日おこなわれた。金子書記局長は、旧知の間柄であるチャウシェスク書記長と、ブカレストでは三年数ヶ月ぶりの再会を喜んだ。会談は、二時間近くに及んだ。会談は、二人だけの会見という方式でなく、一行全員が参加し、一つのテーブルに向き合うという、いわば会談方式がとられた。
宮本議長の親書内容を、はっきりとパラグラフごとに伝える金子書記局長発言をチャウシェスク書記長は、うなずきつつ同時に熱心にメモをとっていた。あとで聞いてみると、チャウシェスク書記長がメモをとることはめずらしいとのことであった。
金子書記局長の発言をうけ、チャウシェスク書記長が発言した。チャウシェスク書記長は、宮本議長の親書への氏の見地を即座にのべた。宮本議長からの挨拶への感謝と議長への挨拶、この間の事態の推移が、八七年の宮本・チャウシェスク共同宣言の評価と立場の正しさを証明していること、国際情勢を科学的に分析すれば諸国人民の重要な役割を証明していることの認識での双方の見地、共同宣言の重要性の確認などであった。一つ一つの言葉、評価を明確にえらびながらの発音も、途中から一段と熱を帯び、身を乗り出すようにして話した。まさに視線の合った会談であった。
宮本議長がチャウシェスク書記長と直接会って会談したのは、七八年である。以来、十年余の歳月が流れている。しかし、両党関係は発展し、特に八七年には、両党首脳間の書簡やメッセージの交換、党代表の派遣などを通じ、両党代表の十分な意見交換を重ねて、歴史的な共同宣言をだした。今回の宮本議長の親書とそれへのチャウシェスク書記長の即座の対応ぶりは、両者と通じ、そして両党のこれまでの交流の進展によって発展させられてきた両党の同志的信頼関係を目の当たりに肌で感じることができた思いであった。
熱弁と仕事後の喜び
チャウシェスク書記長と金子書記局長との会談をうけ、金子書記局長ら一行とエミル・ボブ政治執行委員・書記らとの会談は、十七〜十八の二日間にわたって開かれ、これらをうけ両党代表からなる共同文書づくりの作業がおこなわれた。金子書記局長は、宮本議長の親書をふまえ、共同宣言の重要性、世界の情勢、反核・平和運動と諸国人民のたたかい、これに関連して世界の共産主義運動にあらわれた問題などについて、明確にわかりやすく、いわば「金子ブシ」で、時にはユウモアをふくめ熱弁した。
こうした経緯をへて、「日本共産党の宮本顕治中央委員会議長とルーマニア共産党のニコラエ・チャウシェスク書記長の共同宣言二周年を前にして」という両党中央委員会の共同文書がまとまった。それは、第三回の会談での金子、ボブ両同志の表情と発言、固い握手によって確認された。ボブ同志は、私たちはよく仕事をしたことを評価できるとのべるとともに、今回の訪問は両党間の関係強化のための新しい一歩となったと評価しているチャウシェスク書記長からの挨拶を伝えた。
金子書記局長は確認文書がまとまったことへのよろこびを表明するとともに、一連の会談が、両党関係のみならず、世界の運動の前身への貢献だとの宮本議長からのメッセージを伝えた。「あす東京に帰る。私たちの熱い思いはブカレストに残し、あなた方の好意と友情をトランクに入れかえる。これには運賃がかからない」とのべる金子書記局長の発言には、皆うなずき、声だかに笑った。その夜催された晩さん会は、なごやかで、もりあがり、金子・ボブ同志らの話は、はずみ、終始笑いがたえなかった。
ルーマニアの首都・ブカレストは、木立が多く、春の緑を髣髴(ほうふつ)させた。熊本育ちの私にとっては、はじめてみるそそりたつポプラが印象的だった。今年は、例年にない暖冬とのことで、昼間は十度近い日もあり、根雪もとけだした程だった。
そうした雪のない空港で、帰国の見送りをうけ、方をだき合い別れの挨拶をつげるその双方の手に、入国の時より力がこもっていたのが最後の印象であった。それはまた、八七年の共同宣言の重みと生命力を実感させるものであった。
(党中央委員・社会科学研究所現代資本主義部会員)
赤旗新聞 1989年1月25日