安保法制反対と土下座外交

鳩山由紀夫元首相が、8月12日にソウルの歴史館で記念碑を前に土下座し、謝罪した姿は、驚愕の国辱行為であった。本人は土下座ではないというが、その姿は土下座そのものだ。また韓国式のお辞儀クンジョルです、などと解説する記事・ブログもあるが、お辞儀と謝罪は意味が全く異なり、動作が類似していても別のものである。

謝罪の内容については、ソウル歴史館の出鱈目な内容に対してのものであり、鳩山元総理の謝罪は韓国側の捏造に追随する行為である。ソウル歴史館については、多くのブログで紹介されているので、ここでは省略する。

今回、いろいろなブログを見たが、安保法制に反対している人達の多くが、鳩山元総理の国辱土下座を評価している。これは、単に同じ左翼側、韓国側に属しているから、というよりも、安保法制に反対する以上、土下座外交を志向せざるを得ない、という事でもある。

反対派は、あたかも安保法制により、日本が積極的に他国に攻め込む侵略戦争法案であると主張する。実際、メディアには直接登場しない左翼のブックレットなどを見ていると、「戦争法案」ではなく「侵略戦争法案」となっている。

まともに議論すると、別に他国に侵略したくて安保法制を実現するのではなく、逆に地域の平和と安全のために安保法制が必要である、という点に議論の焦点が移る。安保法制は日本の祖国防衛のための法案であるから、当然である。

その時に左翼の側から登場する理屈が、「軍事抑止力ではなく、平和は外交で実現すべきだ」という平和ボケした主張である。軍事的な抑止力のない外交が何であるかを分かっていないし、そもそも戦争と平和の意味も分かっていない。

戦争は絶対悪である。だが、だからと言って軍事的抑止力が否定されるものではない。軍事的脅威に直面している状況で、軍事オプションを放棄して外交だけで平和を獲得する事は容易ではない。

繰り返すと、戦争は絶対悪である。しかし、ここで我々は考えなければならない。ナチスドイツと戦争した国々は悪の連合だったのか。アメリカと戦争したベトナムは悪い国だったのか。朝鮮戦争で独立を保った韓国は、やはりとんでもない国なのか。独立のため宗主国と戦争したアジア・アフリカの国々は間違いだったのだろうか。

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ヨーロッパやソ連は、ヒトラーの要求を受け入れていれば、悲惨な戦争は避けられていたはずである。ベトナムは共産主義を捨て、アメリカに従っていれば良かったのだ。韓国もすなおに金日成に統一されていれば何百万人という死者を出すことも無かった。植民地は、植民地のままでいれば、戦争の悲劇を避けられていたであろう。

現在の日本ではどうか。左翼の言う「外交によって平和を」というのは、軍事的抑止力を期待できない場合、上記のような選択にならざるを得ない。国益が対立する場面では常に日本が土下座。中国には尖閣を譲る、沖縄も譲る、五島列島も譲る。対馬は韓国に譲る事になるかもしれない。何でも日本が譲歩して、衝突の無い平和な日本を維持する。そういう事を意味するのである。

もちろん、左翼の側は、「日本の国益は外交で守る」などと主張するだろう。しかし、いざとなれば戦争も辞さずという構えがなければ、結局は相手の主張を丸呑みする形でしか解決しない。

「経済力が外交の力となる」というかもしれない。日本の経済より中韓の経済を優先する左翼が主張する内容ではないかもしれないが、経済は国益が守られてこそ発展するのであり、それを外交の武器とするには、結局は軍事オプションも含めて国益を守るしかない。

「文化や思想を外交の力に」というのは、もはやオカルトの世界である。