その昔、グローバリズムに対抗するため地域主義が登場した。マクドナルドや英語、ハリウッド映画など世界的に影響力を拡大するアメリカ文化への警戒心も作用している。
日本でグローバリゼーションに反対していたのは伝統を重んじる右翼ではなく、日本共産党などの左翼だ。米の輸入自由化には、日本人の原風景である農村の稲作文化を守る事を理由に反対していた。保守層ではなく、左翼が、である。
多国籍企業がもたらす画一的な文化に対抗して、地産地消などのローカルを重視した考えが左翼の間で広まった。世界的な資本主義システムの適用ではなく、少数言語の保護や少数民族の経済システムの維持なども主張されるようになった。
一方、ヨーロッパでは「文明の衝突」論に対抗するようにイスラム社会との共存が主張されるようになり、多文化共生という概念が主としてキリスト教社会におけるイスラム教社会の受容という主張に変質することになる。
もちろん、多文化共生を主張する人達の論理だと、イスラム教だけを優遇する概念ではないと主張するだろう。最近ではLGBTまで概念として含めているからだ。しかし歴史的な流れから言えば、911のイスラムテロやイスラム教徒の大量移民などを背景に左翼によって形成されてきた概念である事は間違いない。
ヨーロッパでイスラム教の受容が比較的容易なのは、そもそもキリスト教もイスラム教を唯一の神を信仰しているからだ。詳細に差はあるが、根源の考え方は創造主であり絶対神の存在を前提としている点は共通している。すなわち、「多様性」と言いながら実は共通のルールが存在しているのである。
日本でも、最近では左翼だけではくごく普通に多文化共生と言われるようになった。しかし日本における「多文化共生」とは左翼イデオロギーであり、在日朝鮮人の思想である。つまり多文化共生の名のもとでコリアンの地位を高め、相対的に日本を貶めようとするものである。
さて、左翼の意図はともかくとして多文化共生には重要な前提条件がある。それは、多様性を認めるには、共通の価値観が必要であるという点だ。これについては、例えば白人至上主義者が共生の対象になり得ないとう点を指摘すれば十分であろう。つまり多文化共生の実現のためには、共通の価値観のもとで「多」の範囲を制限する必要があるのだ。
日本において、異文化を許容できる範囲は、「神々の多様性」を認める事ができるか、という点が一つの尺度となる。唯一神の信仰は、我々が信仰する神の否定であるからだ。これは欧米が創造主の存在という共通項でイスラム教社会とかろうじて共存できるという点とは対照的である。
もちろん、共通の価値観には民主主義や公平・信義を重んじる態度、平等主義など様々なものがあるが、キリスト教やイスラム教の考えは根本の所で日本の価値観とは相容れないものである。したがって、信仰の自由という観点では共存できるが、彼等が「神々の多様性」を認めぬ限り多文化共生の対象とはならないのである。