朝鮮総連の誕生と日本共産党

来年、2015年は朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)が発足して60周年となる年である。1955年、それまで日共とともに日本国内で革命と称した暴力活動を繰り広げてきた民戦(在日朝鮮統一民主戦線)はじめ朝鮮人の諸団体は解散し、新たに朝鮮総連が発足した。と同時に「暴力日共」の主役を演じてきた朝鮮人約1万人が一斉に離党、朝鮮労働党の指導下に入る事になった。

この年は日本における革命を目指して暴力活動を行なってきた朝鮮人と日本人の共産主義者が、ソフト路線に変更した転換期である。

朝鮮人共産主義者にとっては李承晩政権の打倒と北朝鮮による南北統一が最大の目的であったが、そのために日本で革命を起すという理屈に疑問が持たれるようになったのだ。昭和30年5月25日、朝鮮民主主義人民共和国の支持を掲げ、朝鮮総連が設立された。

一方、日共の方は「赤い朝鮮人」と結託して非合法活動を行なうという悪いイメージからの脱却が必要であった。日本共産党は同年7月の第6回全国協議会(六全協)で武装闘争路線を放棄し、新たな時代に入っていく。

時事新報1955-05-15 時事新報1955-08-8

時事新報(左:昭和30年5月15日、右:昭和30年8月8日)

日共の長い歴史の中で、終戦後からの10年間ほど消し去りたい時代はないだろう。この時代における彼らの唯一の自慢はアメリカ占領軍に弾圧された、という事だけだ。朝鮮人の熱烈な支持を受け、彼等とともに武装闘争を続けていたのが当時の日共だったのだ。一見すると朝鮮人の暴動に見えても、背後には共産党が支援していたケースもあった。

神戸学校騒擾事件(1948)、長田区役所襲撃事件(1950)、血のメーデー(1952)、吹田・枚方事件(1952)、新宿事件(1952)などである。

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北系朝鮮人が分かれた後も、日本共産党は朝鮮労働党と友党関係にあったが、ラングーン事件(1983)、大韓航空機事件(1987)、日本人拉致問題などを背景に距離を置くようになる。慰安婦問題で韓国の反日が突出するようになると韓国に接近。平成18年(2006年)には志位和夫が日本共産党の委員長として初めて韓国を訪問した。

日本共産党は1966年から党員資格を日本国籍に限っており、現在北朝鮮の人間はいない(帰化した者については不明)。

ところで、来年は憲法改正を掲げて結党された自由民主党の60周年でもある。