1952年というのは、講和条約が発効した年であり、韓国が李承晩ラインを設定して竹島強奪を開始した年でもある。同時に、朝鮮人と日本共産党が一緒になって、日本中で大暴れした年でもあった。
5月1日には有名な「血のメーデー事件」が発生。日本共産党による扇動に加え、朝鮮人が参加し、赤旗と竹槍を持って皇居前広場を行進、警官隊と衝突した。デモ隊は皇居前広場を人民広場などと称しており、革命気分が漲っていた。またデモ参加者は「再軍備反対」を主張していたが、今も昔も憲法9条信者は共産主義者や朝鮮人に洗脳された連中なのである。
朝鮮戦争勃発2周年にあたる6月25日には各地で朝鮮人が日本国内での代理戦争とも言うべき暴動デモを実施、特に北朝鮮系の在日朝鮮人は日本共産党と結託して大暴れをした。お得意の硫酸ビンやら火炎ビンなどの武器を駆使し、これまたお得意の反戦平和を叫んでの騒乱デモを実施したのである。新宿駅前では2500人が集結して警官と衝突。全国で北鮮系110箇所・計2万人、南鮮系10箇所・計2千人が参加したという。
この日の暴動で他に有名な事件としては、吹田事件・枚方事件がある。
これらの暴動が、主権を回復し明るい未来を夢見ていた当時の国を深く失望させたのは間違いない。共産党はその後の選挙で議席を全て失ってしまった。
戦後の左翼運動というのは、全く朝鮮人と日共の合同による革命闘争であって、国民生活を不安定にさせてきただけであった。今日では物騒な騒乱はなく、リベラルな主張に騙される国民も多いが、その正体に変化はない。彼らは反日勢力であり、いつの日か皇居を人民広場として開放させたいと考えている外国勢力でもある。
1952年の騒乱についてはいくつか裁判が起されたが、不思議な事にほとんど無罪である。戦後の左傾化は司法も蝕み、反日勢力が国家権力の側に浸透していったのだ。
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