自由の祖国か死か

赤旗ニカラグア記事

安保法制を巡る与野党の議論が続いているが、正直昨年の集団安全保障に関する議論から一歩も出ておらず、あまりコメントすることもない。

予想通り、個々のケースについてどのように対応するのか、それがどこまで許されるのかという袋小路の議論が続いていており、安倍政権も左翼の術中に陥っている。

非常事態というのは、事前のシミュレーションでは起き得ない事が必ず起きる。紛争発生時に中国がどのような行動をするのか事前に予測する事は不可能だ。そもそも、日中衝突と思っていたらロシアが攻めてきた、なんて事も有り得るのである。

今日はあまりこの事には触れず、ニカラグア内戦に学ぶ祖国防衛の続編である。

日本共産党の不破書委員長は、今から約30年前の1984年12月、ニカラグアを訪問した。以下はその時の赤旗記事の抜粋である。

「ヤンキーくればやっつける」

不破委員長とともに、年若い戦車兵に声をかけると、「ヤンキーがもしきたら、徹底的にやっつけますよ」、ニッコリ答えがかえってきました。

レーガン政権はこのところ、ニカラグアへの武器搬入を阻止するとか、ソ連製のミグ戦闘機が運ばれている疑いがあるとか、武器輸入は自衛の限度をこえているとかいい、侵略の機会をねらっています。

しかし、ニカラグアがどんな武器を輸入しようと、それはニカラグアの権利です。

「自衛の限度をこえている」などと勝手に決めつけること自体おこがましい限りですが、それをいうなら、日本をはじめアジア、ヨーロッパへの大量の武器と軍隊を配備しているアメリカこそ、その最たるものでしょう。

ところが、日本の一部マスコミにも、まるでミグ機が搬入されれば「悪」であるかのように、「ミグ疑惑」などといっている向きがあります。とんでもない話です。いったい民族自決権についてどう考えているのでしょうか。

1984年12月9日(日曜日)赤旗

「戦車を占領」

マナグア市内、ぎっちり組まれた日程のなかで昼食後のひととき、不破委員長と散歩に出た私たちは戦車にバッタリ。なんと子どもたちが占領しています。

砲身にぶら下がったり、砲塔に上ったり、格好の遊び場です。銃を肩に若い戦車兵はニコニコ。恋人が心配していないか、の質問に「全然。二人でともにたたかうのだから心強いですよ」。

その夜、アメリカの侵略の脅威下の軍事、経済、外交などの情勢を詳しく不破委員長に説明したホセ・バソス国際部副部長は、戦車と子どもの話に「ソモサ時代は考えられなかったことですよ。私たちはマナグア市をアメリカの侵略から防衛する決意を固めています。だから戦車が出ても市民は安心し、落ち着いているのです」。

1984年12月23日(日曜日)赤旗

タイトルの「自由の祖国か死か」というのは、上記赤旗の記事のキャプションである。

天安門事件を無視する政治家たち

天安門事件とは、1989年6月4日、民主化を求めて天安門広場に集まった民衆に対して、人民解放軍が武力で鎮圧した事件である。

西側諸国は中国に対する経済制裁を決定し、日本もそれに追随する形で円借款供与を中断した・・・・。は?

今から考えると全く理解に苦しむが、当時、日本は円借款という形で中国にお金を貸して、中国のインフラ整備に大きな貢献をしていた。天安門事件は、その動きに転機をもたらすものであった。

転機をもたあらすはずだったのだが、当時から存在した媚中派が早期の関係回復に動き出す。なんと同じ年の9月17日には自民党の伊東正義を団長とする「日中友好議員連盟」が訪中したのだ。伊東正義は小平及び李鵬首相と会談し、日中友好関係を再確認した。

公明党や社会党は、市民に銃口を向ける中共が大好きであるから理解できるが、一体、どうして自民党が国益を損ねてまでも天安門事件の首謀者たちを助けるような訪中を敢行したのだろうか。

片方で天安門事件を引き合いに日本共産党を批判しつつ、片方では中国利権に群がるため、自民党も公明党も、東欧民主化の歴史的意義も理解せず、媚中ぶりを振り撒いていたのである。

さて、中曽根以降、日本は竹下、宇野、海部、宮澤と総理大臣に恵まれず、国力を低下させていく。

海部政権は翌年には円借款の再会を決定。1991年8月10日、海部総理は西側の首脳としては始めて訪中し、天安門事件を水に流した。これ以降、お墨付きを得た西側企業が中国の改革開放路線に乗って投資を活発化、中国を経済成長させていく事になる。

その翌年、海部俊樹の次の宮澤喜一政権は天皇陛下訪中を実現させる。1992年10月の事である。その翌年は河野談話が出された。そのような時代であった。

中国を資本主義に慣れさせ、国際社会のルールに馴染むようにしていくことの方が、経済制裁で押し込むより効果があると考えたのかもしれない。もちろん、媚中派議員はそのような遠大な思想があったわけではなく、単に中共のイヌであったに過ぎない。

しかし、そのような考え方が如何に間抜けな発想であったかというのは、その後の中国の反日ぶり、アジアでの軍事覇権の拡大を見れば明きらかである。日本が西側諸国の先陣となって天安門事件を不問にしたところ、中国は日本に対して反日攻勢を仕掛けてきたのである。

今年になって要人の中国詣でが相次いでいる。二階俊博は韓国に次いで中国に大使節団の長として訪問した。

中共は、日本が譲歩して歩み寄った直後に、日本に対して高圧的な要求を開始し始める。これが歴史に学ぶという事である。日中友好論者は天安門事件の事も水に流し、日本側が妥協すれば日中対立は解消されると信じているようだが、歴史をきちんと勉強してもらいたものだ。