韓国に密入国者を送還するために在日犯罪者を釈放した日本国政府

最近、日本共産党の仁比聡平議員が、「吉田書簡」なるものをヘイトスピーチだとして国会で取り上げた。この吉田書簡とは、日本がまだアメリカの占領下にあった昭和24年に吉田茂からマッカーサー宛てに送ったもので、朝鮮人の不法行為に不満を漏らし、朝鮮人は原則として日本から半島に送還すべし、という内容だ。

この吉田書簡は嫌韓のサイトには多く引用されているもので、また保守系の書籍でも度々掲載されている。日本の右傾化に寄与している資料の一つである。

現在、ほとんどの日本人は戦後の朝鮮人や日本共産党の悪事については知識がない。竹島問題などを契機にたまたま保守系のサイトを訪れた人が、吉田書簡などの資料を見て戦後の混乱期にどれだけ朝鮮人が日本を苦しめたのかを「発見」する程度だ。あとは2ちゃんねるを見ている人達であろう。

だから、吉田書簡の存在を知らしめることは、戦後朝鮮人の悪事を宣伝することと同じであり、これを日本共産党が出したことは正直驚きである。

さて、前置きが長くなったが、朝鮮人問題は半島からの密入国者が続いたことで、吉田茂の希望は全く実現できなくなってしまった。

当時、終戦以前から日本に住んでいた朝鮮人による犯罪は深刻な問題であったが、サンフランシスコ条約発効後も韓国からの密入国も頭の痛い問題であった。日本国政府は、国内で犯罪をおかした朝鮮人は韓国に送還する方針であったが、韓国政府はこの受け取りを拒否していたばかりか、日本への密入国者の引き取りも拒否していた。

終戦以前から日本にいた在日犯罪者よりも密入国者数の方が多かったため、密入国者を韓国に送還できないのは、日本国政府にとって大きな負担であった。

結局、日本国政府は韓国と協議して、とんでもない決定をしてしまう。密入国者209名を韓国に引き取ってもらう代りに、大村収用所に収用されていた在日犯罪者85名を仮釈放する事に合意したのだ。昭和30年(1955年)のことである。

密入国者受け入れ拒否という不当な行為によって日本側を苦しめ、その解決策として犯罪者を釈放させる、という韓国のヤクザのような政治手法は、朝鮮人の民族性なのであろう。その後、似たようなパターンで日本外交はいつも苦しめられることになる。北朝鮮の拉致問題はその最たるものである。

さて、終戦以前から日本にいた在日朝鮮人について、彼等が犯罪をおかしたとしても半島には送還できないという事に日本政府が合意した事は、朝鮮人による更なる要求を生み出すことになる。

すなわち、犯罪をおかしても日本国内に滞在できるなら、犯罪をおかしていない善良な朝鮮人はそのまま日本に滞在できるはずだ、という理屈である。そりゃそうだ。まっとうな理屈であり、反論は難しい。朝鮮人を相手にした「その場限りの例外的」な合意は、すぐに一般化され、なし崩しになっていくのである。

その後、長い時間をかけて日韓の間で条約が結ばれることになるが、在日朝鮮人・韓国人は日本での永住許可という特権を手に入れることになったのである。

【赤旗】社会主義みたままきいたまま1

今日は、80年代でも社会主義を礼賛していた日本共産党の連載第1回を紹介する。この連載は1985年、今から30年前の記事であり、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニアの共産主義を好意的に伝えている。これらの国は、実は強権政治の独裁国家であり、日本共産党はそれを隠し続けてきたが、わずか4年後の1989年にこれらの政権は崩壊した。

1989年、記事にある東ドイツのホーネッカーは、東ドイツ市民のデモ行動の意味を理解せず、ゴルバチョフにも見捨てられ、辞任することになる。

記事の中でひときわ目立つのがルーマニアへの手放しの礼賛だ。チャウシェスクのルーマニアは、日本共産党にとっての希望であり、東欧革命の時には最後まで踏ん張ってくれることを期待していたことだろう。

関連記事:チャウシェスクと日本共産党の親密な関係

日本共産党研究代表団の一員として、昨年十月ドイツ民主共和国(東ドイツ)を訪問した本誌の佐々木編集局次長、十一月ハンガリーを訪問した河邑編集局次長、ルーマニアでの四年間の特派員活動を終えて年末に帰国した白井前ブカレスト特派員に、社会主義国の人たちの生活について話してもらいました。(司会は大高節三外信部副部長)

ゆったりした生活/豊かさに努力の跡/西側から買い物客

-- まず訪問の印象や、生活体験の感想などから。

生産の増加が生活に連動

佐々木 一九六○年代に何度か東ドイツにいったが当時と比べて経済が多きく発展していることを感じた。ドイツ社会主義統一党のホーネッカー書記長が就任した同党第八回大会で、「経済政策と社会政策の統一」を社会主義建設の原則として確立したが、これは生産の増加を国民の生活に最大限にふり向けていくということだ。

それがいま一番具体的に表れているのは住宅建設だと思う。全世帯に一戸ずつ住宅を提供することを目指して非常な勢いでおこなわれている。ドレスデンでもすでに九三〜四パーセントの世帯が一戸の住宅をもてるようになっている。数字でみても四九年の建国以来八四年七月までに総計三百四十五万九千戸の住宅がつくられたが(人口は千七百万弱)、そのうち二百十万八千戸は七一年以降につくられている。一般の民衆も労働者も意欲的に建設に参加している雰囲気が感じられた。

西独へでなくハンガリーへ

河邑 日本でよく聞く社会主義のイメージは「自由がなくて貧しい」というものだが、ハンガリーの第一印象として強く感じたのは、この社会主義イメージとの関係でいえば、むしろ「自由で豊かな社会主義」といってもいいような生活実態がつくられていることだった。

これは、私一人の印象ではないようで、昨年十二月一日付「毎日」の江川昌特派員の記事でも、隣国の資本主義国オーストリアのウィーンから日本への商社員がハンガリーへショッピングにきていることが書かれている。この特派員は、「豊かな西と貧しい東」という「常識」が頭にあって、ショッピングにいくなら西ドイツだと思っていたので驚いたと書いている。これは、かなりよくいまのハンガリーの経済実態を伝えているように思う。私たちが会ったハンガリ社会主義労働者党のネメト政治局員も、「オーストリアの賃金をハンガリーで使いたい」というとばがあるといっていた。市電の料金でもハンガリーでは一フォリント(五円)あればどこへでもいけるが、ウィーンでは十シリング(百二十五円)かかる。食料も安いし、品物もあるので、ハンガリーへやってきた買い物し、レストランで食事し、散髪する、歯医者やクリーニングまでやってくる。費用はオーストリアの四分の一くらいですむということだ。

これは、生活の面で要求を満たす努力がなされ、それなりの成果があがっているということで印象深かった。

医療も教育も無料で安心感

白井 四年間ルーマニアの市民生活に直接触れ、社会主義の体制的優位性をほんとうに強く感じて帰ってきた。日本に比べて生活費ははるかに安い。確かに借金が増えたために輸出を振興しなければならないが、一口でいえば苦しい経済常態は国のレベルでくい止められていて、国民の生活まで及ばないよう努力がされているというのが実感だった。

ルーマニアは革命前は七割が農民という、非常に遅れた農業国だった。それがこの四十年間で大きく変わった。しかし出発点が非常に低かったわけだから、大きく発展したといっても一人当たり国民総生産ではまだ日本の四分の一ほどだ。にもかかわらず国民の生活面には国の施策で非常に大きな支出がされて、国民の医療、教育、住宅などの面では、経済がはるかに発達している日本が及ばない水準のものが保障されている。

そこからくる安心感、満足感が国民のあいだに強い。

医療も教育も無料だし、住宅も私の住んでいた家は日本流にいえば十二畳の部屋が三つと十畳の仕事部屋がついていて、家賃が三百五十レイ(約七千円)たらずだった。

デング熱も防げないのにMERSを阻止できるのか

今日(2015年6月10日)のニュースで韓国の朴大統領がMERS対策のため訪米を延期したそうだ。このことは、ウイルスの感染拡大は、政治を混乱させる要因となり得ることを示している。

MERSは、その致死率は高いものの、人から人へと連鎖的に拡大する事がないため、専門家の間では極端な心配はしていないようだ。このため日本政府の対応も外務省が中国と韓国をひっくるめたスポット情報を提供しているのみで、「不要不急の渡航は延期してください」などを呼びかける感染症危険情報は発出されていない。

現在、日本では不思議なくらい、韓国内での感染拡大に対する危機感がない。一つには嫌韓ブームの影響で、韓国はドジだから感染拡大しているのであって、日本ではきちんと対応できる、という慢心があるだろう。しかし、日本は昨年、デング熱の侵入を許し、しかもその拡大を蚊の活動が収まる時期まで防げなかったという事を忘れていないか。

昨年(2014年)、約70年ぶりに日本でデング熱の患者が報告され、大騒ぎになった。本来、海外でデング熱に感染した人は空港で隔離されて、水際で侵入が阻止されるはずであるが、そうはならず、蚊を媒介に次から次に感染したのである。

デング熱の感染は代々木公園から広まったが、代々木公園で外国人が多く集まるイベントが何回か開催されていたのが原因ではないかとも言われている。

もしMERS患者が何らかの理由で空港の検査をすり抜けて日本に入国できたとすると、どうなるだろう。日本の病院は韓国の病院ほどマヌケではないかもしれない。しかし日本人だってマヌケはいるし、全国全ての医者・病院が適切な対応するとは言えない。

日本国内で、韓国での感染拡大に呑気なのは、今回の事態を楽しんでいる嫌韓派ばかりではない。例えばNHKは、韓国でのMERS感染拡大に対して全く心配がないような報道をしており、中東のラクダが原因だという事を強調している。日本中がMERSを心配していないようなのである。

朴大統領の訪米延期のように、ひとたびMERSが感染拡大をはじめると政治は混乱する。そして、現在の政治、特に開催中の国会が混乱して安倍政権が必要な法案を通せなくなる方が都合の良い勢力があるのは意識しておくべきである。

すでに安保法制の議論は左翼のペースで進んでいる。また、年金機構の情報流出という問題が発生し、野党は大喜びだ。もう一押しあれば、安倍政権を窮地に陥れる事ができる。

そう考えると、「日本でもMERSの感染が広がれば良いのに」と内心思っている左翼がいても全くおかしくない。韓国は安全だ、MERSは心配ないという情報を流しているメディアも、「誰か持ち込んでくれないかな」と期待しているかもしれない。

すでに感染の疑いで隔離対象となった韓国人がフィリピンに旅行に出掛けたとのニュースもある。愛国的韓国人が、ある意思をもって感染者を日本に入国させる事に協力することだって有り得る。

今まで韓国は安全だと言ってきた勢力が、急に政府の甘い対応を批判しはじめたら、その背後を探ってみるべきであろう。

中共をナチスにたとえるフィリピン大統領

6月2日から5日まで日本を訪問した来日したフィリピンのアキノ大統領が、3日の都内の講演会で中国をナチスに喩えた。このニュースにギョッとした人も多かったのではないだろうか。

アキノ大統領は、昨年(2014年)の2月にもニューヨークタイムズ紙のインタビューで中国を1930年代のナチス・ドイツに喩え、国際社会の行動を促している。

アキノ大統領が取り上げたのは、1938年にドイツがチェコのズデーテン地方に進駐した事件である。ヒトラーはオーストリア併合後に軍事力を背景としてズデーテン地方割譲をチェコに要求した。仲介役となったイギリスのチェンバレン首相はナチスとの戦争を恐れ、ヒトラーの要求を認めてしまう。その後、ナチスは次々に領土を拡張していった。

では、当時のナチスドイツと現在の中共とは何が共通しているというのだろうか。中国は南沙諸島(スプラトリー諸島)の実効支配を着々と進めている。地図で見れば明白であるが、スプラトリー諸島はマレーシアの北側で、フィリピンとベトナムの間に位置しているが、大陸からは随分離れた位置にある。

中国の領土とは言えない地域に中国海軍が進出し、フィリピンが領有権を主張している島に恒久施設を建設している状況に、フィリピンは大きな脅威を感じている。国際社会が中国に遠慮して何も行動を起さない状況は、まさに1930年代にナチスの拡大を許した欧州の状況に類似しているのだ。

しかし、それにしてもある国をナチスに喩えるとは、ただ事ではない。日本では共産党はじめ左翼が毎回のように自民党の首相をヒトラーに喩えるため、ひょっとしたらヒトラーとは誉め言葉なのかと錯覚してしまうが、国際社会では「ナチ」とか「ヒトラー」というのはとんでもないヘイトスピーチなのである。嫌韓派に「おまえは韓国人みたいだ」と揶揄するどころの話ではない。命を賭けるほどの発言なのである。

アキノ大統領は、さすがに国際感覚がわかっていて、中国をヒトラーだと言って非難しているのではなく、むしろ何もしない国際社会に警告する方に重点を置いている。

とは言え、近年におけるフィリピン国民の対中国感情の悪化は想像以上であることが分かる。

フィリピンでは1991年6月のピナツボ山大噴火により、クラーク空軍基地とスービック海軍基地がアメリカからフィリピンに返還された。中国がスプラトリー諸島で軍事的活動を活発化させたのはその直後であるが、国際社会は傍観したまま、中国の実効支配が強化されていくことになる。

クラークアやスービックなど、米軍関連施設の跡地は、その経済特区に指定されるなど開発が進み、近年における経済成長にも貢献している。しかし、その代償はあまりにも大きく、フィリピンンは領土喪失という事態に直面しているのである。

アキノ大統領がニューヨークタイムズに語った内容を、今年になって日本で述べたことには意味がある。もちろんバランスを考えて安倍首相との会談などではなく、講演会の場での発言ではあるが、そのメッセージは明確だ。中国の拡張主義に対し、日本はナチスの暴走を許したヨーロッパ各国のような傍観者であるべきではない、という事である。

そもそも日本は当事者である。中国は尖閣諸島の領有を明言するばかりか、2013年には防空識別圏まで設定して日米同盟に挑戦してきた。また中国漁船を大挙日本の領海に送り込み、日本への侵略を着実に進めている。

アキノ大統領の任期は2016年までである。安倍首相には来年の参院選が控えている。中国の覇権拡大が明白となっているなか、周辺国の団結を継続できるのか、歴史の大きな転換期にあるのである。

 

【赤旗】金子書記局長のルーマニア訪問に同行して

チャウシェスクと日本共産党の親密な関係で指摘したように、日本共産党はルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊する直前まで親密な関係を築いていた。今日はその補足資料である。下記の記事は1989年1月25日の記事である。昭和天皇崩御後で、共産党が天皇制批判と昭和天皇に対して戦争犯罪者として個人攻撃を激化させている最中、独裁者チャウシェスクとの親交を温めていたのである。同年12月、チャウシェスクは民主主義革命により捕えられ、クリスマスの日に処刑された。
赤旗チャウシェスク記事

有働正治

十四日、成田空港をたち、二十二日帰国の日程で、ルーマニアを訪問した金子書記局長に同行した。ルーマニア訪問ハ一行のなかでは、私だけがはじめてであった。東部を黒海に面し、総延長三千キロ近いドナウ川の流れの三分の一を抱えたルーマニアまでの距離は、途中、西独のフランクフルト経由でおよそ十五時間ほどかかる。距離的には、遠くへだてている。しかし、訪問を通じもっとも痛感したことは、両党は同志的な友情という点では、距離の通さとは逆に、大きな共通点で結ばれているということであった。

熱心にメモしその場で応答

金子書記局長の今回の訪問の目的は、宮本議長の親書伝達と協議のためだった。金子書記局長のルーマニア訪問は、昨年十二月にも予定されていたが、日本の国会が重要問題で延期されてきたので、ことしになったものだった。

チャウシェスク書記長との会談は十七日おこなわれた。金子書記局長は、旧知の間柄であるチャウシェスク書記長と、ブカレストでは三年数ヶ月ぶりの再会を喜んだ。会談は、二時間近くに及んだ。会談は、二人だけの会見という方式でなく、一行全員が参加し、一つのテーブルに向き合うという、いわば会談方式がとられた。

宮本議長の親書内容を、はっきりとパラグラフごとに伝える金子書記局長発言をチャウシェスク書記長は、うなずきつつ同時に熱心にメモをとっていた。あとで聞いてみると、チャウシェスク書記長がメモをとることはめずらしいとのことであった。

金子書記局長の発言をうけ、チャウシェスク書記長が発言した。チャウシェスク書記長は、宮本議長の親書への氏の見地を即座にのべた。宮本議長からの挨拶への感謝と議長への挨拶、この間の事態の推移が、八七年の宮本・チャウシェスク共同宣言の評価と立場の正しさを証明していること、国際情勢を科学的に分析すれば諸国人民の重要な役割を証明していることの認識での双方の見地、共同宣言の重要性の確認などであった。一つ一つの言葉、評価を明確にえらびながらの発音も、途中から一段と熱を帯び、身を乗り出すようにして話した。まさに視線の合った会談であった。

宮本議長がチャウシェスク書記長と直接会って会談したのは、七八年である。以来、十年余の歳月が流れている。しかし、両党関係は発展し、特に八七年には、両党首脳間の書簡やメッセージの交換、党代表の派遣などを通じ、両党代表の十分な意見交換を重ねて、歴史的な共同宣言をだした。今回の宮本議長の親書とそれへのチャウシェスク書記長の即座の対応ぶりは、両者と通じ、そして両党のこれまでの交流の進展によって発展させられてきた両党の同志的信頼関係を目の当たりに肌で感じることができた思いであった。

熱弁と仕事後の喜び

チャウシェスク書記長と金子書記局長との会談をうけ、金子書記局長ら一行とエミル・ボブ政治執行委員・書記らとの会談は、十七〜十八の二日間にわたって開かれ、これらをうけ両党代表からなる共同文書づくりの作業がおこなわれた。金子書記局長は、宮本議長の親書をふまえ、共同宣言の重要性、世界の情勢、反核・平和運動と諸国人民のたたかい、これに関連して世界の共産主義運動にあらわれた問題などについて、明確にわかりやすく、いわば「金子ブシ」で、時にはユウモアをふくめ熱弁した。

こうした経緯をへて、「日本共産党の宮本顕治中央委員会議長とルーマニア共産党のニコラエ・チャウシェスク書記長の共同宣言二周年を前にして」という両党中央委員会の共同文書がまとまった。それは、第三回の会談での金子、ボブ両同志の表情と発言、固い握手によって確認された。ボブ同志は、私たちはよく仕事をしたことを評価できるとのべるとともに、今回の訪問は両党間の関係強化のための新しい一歩となったと評価しているチャウシェスク書記長からの挨拶を伝えた。

金子書記局長は確認文書がまとまったことへのよろこびを表明するとともに、一連の会談が、両党関係のみならず、世界の運動の前身への貢献だとの宮本議長からのメッセージを伝えた。「あす東京に帰る。私たちの熱い思いはブカレストに残し、あなた方の好意と友情をトランクに入れかえる。これには運賃がかからない」とのべる金子書記局長の発言には、皆うなずき、声だかに笑った。その夜催された晩さん会は、なごやかで、もりあがり、金子・ボブ同志らの話は、はずみ、終始笑いがたえなかった。

ルーマニアの首都・ブカレストは、木立が多く、春の緑を髣髴(ほうふつ)させた。熊本育ちの私にとっては、はじめてみるそそりたつポプラが印象的だった。今年は、例年にない暖冬とのことで、昼間は十度近い日もあり、根雪もとけだした程だった。

そうした雪のない空港で、帰国の見送りをうけ、方をだき合い別れの挨拶をつげるその双方の手に、入国の時より力がこもっていたのが最後の印象であった。それはまた、八七年の共同宣言の重みと生命力を実感させるものであった。

(党中央委員・社会科学研究所現代資本主義部会員)

赤旗新聞 1989年1月25日