【赤旗】社会主義みたままきいたまま1

今日は、80年代でも社会主義を礼賛していた日本共産党の連載第1回を紹介する。この連載は1985年、今から30年前の記事であり、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニアの共産主義を好意的に伝えている。これらの国は、実は強権政治の独裁国家であり、日本共産党はそれを隠し続けてきたが、わずか4年後の1989年にこれらの政権は崩壊した。

1989年、記事にある東ドイツのホーネッカーは、東ドイツ市民のデモ行動の意味を理解せず、ゴルバチョフにも見捨てられ、辞任することになる。

記事の中でひときわ目立つのがルーマニアへの手放しの礼賛だ。チャウシェスクのルーマニアは、日本共産党にとっての希望であり、東欧革命の時には最後まで踏ん張ってくれることを期待していたことだろう。

関連記事:チャウシェスクと日本共産党の親密な関係

日本共産党研究代表団の一員として、昨年十月ドイツ民主共和国(東ドイツ)を訪問した本誌の佐々木編集局次長、十一月ハンガリーを訪問した河邑編集局次長、ルーマニアでの四年間の特派員活動を終えて年末に帰国した白井前ブカレスト特派員に、社会主義国の人たちの生活について話してもらいました。(司会は大高節三外信部副部長)

ゆったりした生活/豊かさに努力の跡/西側から買い物客

-- まず訪問の印象や、生活体験の感想などから。

生産の増加が生活に連動

佐々木 一九六○年代に何度か東ドイツにいったが当時と比べて経済が多きく発展していることを感じた。ドイツ社会主義統一党のホーネッカー書記長が就任した同党第八回大会で、「経済政策と社会政策の統一」を社会主義建設の原則として確立したが、これは生産の増加を国民の生活に最大限にふり向けていくということだ。

それがいま一番具体的に表れているのは住宅建設だと思う。全世帯に一戸ずつ住宅を提供することを目指して非常な勢いでおこなわれている。ドレスデンでもすでに九三〜四パーセントの世帯が一戸の住宅をもてるようになっている。数字でみても四九年の建国以来八四年七月までに総計三百四十五万九千戸の住宅がつくられたが(人口は千七百万弱)、そのうち二百十万八千戸は七一年以降につくられている。一般の民衆も労働者も意欲的に建設に参加している雰囲気が感じられた。

西独へでなくハンガリーへ

河邑 日本でよく聞く社会主義のイメージは「自由がなくて貧しい」というものだが、ハンガリーの第一印象として強く感じたのは、この社会主義イメージとの関係でいえば、むしろ「自由で豊かな社会主義」といってもいいような生活実態がつくられていることだった。

これは、私一人の印象ではないようで、昨年十二月一日付「毎日」の江川昌特派員の記事でも、隣国の資本主義国オーストリアのウィーンから日本への商社員がハンガリーへショッピングにきていることが書かれている。この特派員は、「豊かな西と貧しい東」という「常識」が頭にあって、ショッピングにいくなら西ドイツだと思っていたので驚いたと書いている。これは、かなりよくいまのハンガリーの経済実態を伝えているように思う。私たちが会ったハンガリ社会主義労働者党のネメト政治局員も、「オーストリアの賃金をハンガリーで使いたい」というとばがあるといっていた。市電の料金でもハンガリーでは一フォリント(五円)あればどこへでもいけるが、ウィーンでは十シリング(百二十五円)かかる。食料も安いし、品物もあるので、ハンガリーへやってきた買い物し、レストランで食事し、散髪する、歯医者やクリーニングまでやってくる。費用はオーストリアの四分の一くらいですむということだ。

これは、生活の面で要求を満たす努力がなされ、それなりの成果があがっているということで印象深かった。

医療も教育も無料で安心感

白井 四年間ルーマニアの市民生活に直接触れ、社会主義の体制的優位性をほんとうに強く感じて帰ってきた。日本に比べて生活費ははるかに安い。確かに借金が増えたために輸出を振興しなければならないが、一口でいえば苦しい経済常態は国のレベルでくい止められていて、国民の生活まで及ばないよう努力がされているというのが実感だった。

ルーマニアは革命前は七割が農民という、非常に遅れた農業国だった。それがこの四十年間で大きく変わった。しかし出発点が非常に低かったわけだから、大きく発展したといっても一人当たり国民総生産ではまだ日本の四分の一ほどだ。にもかかわらず国民の生活面には国の施策で非常に大きな支出がされて、国民の医療、教育、住宅などの面では、経済がはるかに発達している日本が及ばない水準のものが保障されている。

そこからくる安心感、満足感が国民のあいだに強い。

医療も教育も無料だし、住宅も私の住んでいた家は日本流にいえば十二畳の部屋が三つと十畳の仕事部屋がついていて、家賃が三百五十レイ(約七千円)たらずだった。