憲法に大学無償化明記はあり得ない

教育の無償化を大学まで適用させるため、憲法に記載させようと主張する連中がいる。日本維新の会だけではない。安倍首相までその可能性に言及している。

結論から言うと、とんでもない暴論であり、維新にあっては人気取りの、自民にとっては政局優先の主張であり、必要性が無いばかりか、有害ですらある。

そもそも教育無償化という言葉自体がまやかしである。教育には金がかかる。第一に先生達に払う給料を誰かが負担する必要がある。校舎や教材もそうだ。それは納税者であり、国民だ。義務教育だって無償ではない。国民はそのための税金を払っているからであり、たとえ何らかの事情で税金を払っていなくとも、他の目的に使えていたであろう資源を教育のために使われている事情には違いはない。

「教育」とは、必ずしも高校や大学だけで実施されているものではない。サッカー選手になるために海外の有名クラブに所属するのも立派な教育だ。棋士になるため高校進学しない人もいるだろうが、将棋の勉強だって教育だろう。家業を継ぐために進学をしない人達は、その後は教育を受けない人生を送るわけではあるまい。

多様な生き方がある中(これは現代だけの話ではなく、ずっと昔からそうだ)で、伝統的な高校・大学だけが教育と思ったら大間違いだ。料理学校だって大学になり得るし、コンピューターゲームや落語漫才等の芸能、果てはアダルト女優だって教育に成り得る。

冗談で言っているのではなく、国が「大学」の授業料を負担するという制度が出来たとたん、ありとあらゆるジャンルの大学が登場するのは間違いない。今だってカタカナで一体何を教えているのか、果して大学教育と言えるのかも不明な学部が沢山ある。教育無償化の流れの中で、あれもこれも教育という有象無象の教育者が乱立するだろう。

もちろん文科省が何らかのコントロールはするだろうが、加計騒動で露呈したように彼等は左翼の言いなりで、アナーキーな状況を止める事は出来ない。吉本大学だって認可するだろう。気紛れな世論の中にあって、「物理」が教育で、人を笑わせる技術の研究が教育でないと果して主張できるのか、はなはだ怪しい。

教育は、内容によって必要な費用が異なる。人件費だけで済む場合もあれば、実験のための費用や装置などに高額な費用が必要な教育もある。宇宙工学のため宇宙ステーションの滞在費用だって場合によっては必要な教育費だ。それを、どうやって国家が負担できるのか。しかも公平にだ。

人件費ですら、教育内容によっては大きく異なる。アメリカで有名な教授の授業を受ける場合と、日本で無名のポスドクの授業を受けるのでは、必要な金額は天と地との開きがある。

金太郎飴のような同水準の教育なら国の負担も考えられようが、義務教育を超える教育は内容によって質も量も全くバラバラで費用や期間を公平に設定する事は不可能である。

以上の事は憲法以前の問題であり、まして憲法に記載するなどとんでもない話だ。