在日朝鮮人の処遇は、戦後日本の最大の課題の一つであった。頻発する「第三国人」犯罪と密入国者の急増、そして朝鮮人と日本共産党が結託して共産主義革命のための騒擾を各地で引き起こすといった治安上の問題が大きかったのだ。
戦後、朝鮮半島への引揚を希望する朝鮮人については、GHQによる計画送還が進められた。しかし、終戦翌年には早くも日本への密入国が顕在化するようになり、希望者を対象とする送還だけではなく、「強制送還」が開始される。
強制送還はGHQの指令で進められ、昭和21年から昭和25年11月までに46,000人の朝鮮人が送還された。
日本国政府による朝鮮人の強制送還は、昭和25年12月に始まった。「退去強制」事案に該当する者が対象で、大半は密入国者であるが、犯罪を犯した在日朝鮮人(戦前から日本にいた者)も含まれている。
つまり、強制送還とは言っても、犯罪を犯した外国人は母国に送還するという処置であり、「退去強制」事案に該当すれば、朝鮮人以外には当然のごとく適用されるものだ。当時も、そして今日でも、あたかも強制送還が、朝鮮人を全員強制的に半島へ搬送するというイメージで使われるケースがあるが、政府が進めた強制送還とは、犯罪者の母国への引渡しである。
さて、韓国は昭和27年3月の第7次送還までは受け取っていたが、同年5月の第8次送還以降、受け取りを拒否するようになった。サンフランシスコ講和条約が同年4月28日に発効されたことに対する嫌がらせであろう。理由は当時の人にも分かっていない。
第8次送還(昭和27年5月12日)では、410名の韓国人のうち、戦前から日本に居住していた125名の受け取りを韓国が拒否し、日本に逆送還されることになった。
その後、同年9月27日に、「戦前から日本に在留している韓国人は日韓会談が成立するまで送還しない」という協定が結ばれる。朝鮮人得意の、カラ約束の引き伸ばしだ。
このようにして、犯罪を犯した韓国人は母国では引き取られず、大村収容所に収容され、それが左翼人権派の攻撃材料となっていくのである。
仕方なく日本は、犯罪を犯した韓国人であっても、退去強制しない処置を下すようになる。前科3、4犯程度なら在留特別許可を与え、前科5犯以上で特に悪質な者のみ退去強制の対象とした。更には収容や仮放免が長期に渡る者にも在留特別許可を与えた。
そして、竹島を韓国領と主張する李ラインによって韓国側に強制連行された漁民の解放と引き換えに、刑罰法令違反者474名を仮放免したのである。
李承晩大統領が、日本から強制送還される朝鮮人の受け取りを拒否していたのは、在日朝鮮人を日本国内に留めておく事が、日本を将来的に乗っ取るという韓国の長期戦略が背景にあるのだろう。結果として日韓基本条約により、戦前から日本にいる朝鮮人には特別な永住権が認められたのだ。
犯罪を犯した外国人を母国に送還するという当然の事が在日に適用されないのは、1965年の日韓基本条約以降であるが、それまでも実質的に朝鮮人犯罪者の韓国への送還は困難な歴史であったのである。