追い返した以上の韓国人に特別在留を認めていた日本

今年は戦後70年という事で、メディアは様々な企画を予定している事だろう。同時に日韓基本条約締結50年でもあるので、その視点からの特集もあるだろう。

さて、戦後20年の昭和40年、つまり1965年は日韓交渉が大詰めを迎え、韓国からの密入国と、密入国者を収容する大村収容所が大きな話題となっていた一年であった。今回取り上げるのは、その年の7月3日、読売新聞が掲載した「日韓調印後の大村収容所を見て」という記事である。

記事では、昭和25年から40年までの15年間に14,552人の韓国からの不法入国者を韓国に送還した事を伝えている。全体で60回。年平均4回という事になる。ちなみに密入国自体は昭和21年、つまり戦後1年目から本格化している。

記事では、同時に法務大臣が、それまで約17,400人の特別在留を認めていると伝えている。つまり、少くとも昭和40年の時点では、強制送還した韓国人の数よりも日本への滞在を認めた韓国人の数が多かったのである。

これは、密入国者の半数しか強制送還しなかったという意味ではない。というのは、ここで出ている数値は日本側に検挙された密入国者だからである。戦後長い間、日本はその長い海岸線を監視する事ができず、把握している以上の韓国人が密入国してきた。このため、日本に滞在する事になった密入国・不法滞在韓国人は半数をはるかに超える数であるはずだ。残念ながら、正確な数字は不明である。

日本は、日韓協定の調印にあたり、「永住韓国人の近親者が再会するため日本を訪問したい場合は、入国許可についてできるだけ好意的に配慮する」との法務省入管局長談話を出した。しかし、その談話で密入国の状況が変化しないであろうとも、記事では述べている。「さようなら、またきます」というのが、強制送還される人達の挨拶であったそうだ。

韓国には、戦後の建国後に朝鮮戦争や済州島の虐殺といった悲惨な歴史があり、経済も混乱、日本を目指して密入国が相次いだ。

この時期、密入国者の構成は大学卒業生、高校、中学卒業生といった若い年代が増えていた。大村収容所の70%はこうした若者だったという。彼等の多くはもう60歳以上だ。彼等のうち、特別在留を認められていた人達には、日本生れの3世、ひょっとして4世がいても不思議でない。

彼等、日本国政府の温情によって日本滞在を認められた人達は、果して日本に感謝しているだろうか。その2世、3世は、父母世代に韓国を見捨てて、日本国政府のおかげで日本に生まれ育った事をどう思っているだろうか。在日や帰化勢力が露骨な反日姿勢を示す今日、気になる点である。