北朝鮮拉致問題も金と妥協で最終解決か

平成27年は、日本では安保法制の一年であったと言えるが、北朝鮮による拉致被害者の救出問題は全く進展がなく、一旦緩めた制裁を元にも戻さず、国民の関心も薄れた一年であった。すでに1977年の拉致から38年を経過しており、全員「生きて」帰国という主張と、「何人かは死亡」を前提とする考えの間で、日本側の団結が崩れていく過程にある。

安倍政権の登場は拉致問題の解決を期待させたが、何の成果も生んでいない。2014年に経済制裁を一部解除したが、北朝鮮は問題を放置して「調査」なるものも無視している。

相手の誠意を期待して、日本側から譲歩するという手法は朝鮮人には通用しない。そんなことは戦後の歴史を見れば明らかなのだが、目先の成果だけを考えて動く政治家・官僚は歴史の教訓を無視している。特に外務省のエリート官僚は、日朝交渉史・日韓交渉史について勉強していないのでないだろうか。

安倍政権は、年末になって国民を裏切り、慰安婦問題で韓国との間で口約束の最終解決を強行した。文書化された合意すら難癖をつけて蒸し返す国民に、口約束など守れるはずがない。そもそも慰安婦問題を深刻にしているのは韓国政府ではなく、韓国の民間団体と日本の左翼だ。政府間合意で解決するような性質の問題ではない。

12月28日の日韓合意が深刻なのは、周辺国にも慰安婦問題を拡大させる点だ。特に北朝鮮はこの問題を日朝交渉にリンクさせる方策を考えていることだろう。「元慰安婦」を登場させるのは、平均寿命が短い北朝鮮では難しいかもしれない。しかし「強制連行」のストーリーは韓国よりも上手に捏造するだろう。

さて、拉致被害者はやがて高齢化し、そして死んでいく。日本はどうすれば良いのか。

日本の外交で「報復」という手段はない。経済事案で外国企業に何らかの制裁を課すということはあるが、国家を相手に「報復」という形での経済制裁というのはない。経済制裁は何らかの譲歩を引き出すためのものだ。拉致被害者が全て死んでしまえば、北朝鮮に求めるのは残されない。せいぜい謝罪の言葉と賠償金ぐらいだが、この件で北朝鮮が金を払う事はなく、逆に日本が金を払う事になりそうだ。

どういうわけだか、保守系の論客でも拉致問題に関しては日本が北朝鮮に経済支援する事が当然のように語られている。もちろん、彼等はその順序については正しく主張しているが、経済支援あるいは経済交流が先、という左翼的な太陽政策論者もいる。

北朝鮮は、日朝交渉の中では植民地支配に対する賠償を求めてくるだろうが、国際的に注目を浴びることになった慰安婦問題を捏造してくる可能性が高い。日韓合意がなければ登場しなかったはずの問題が、新たな交渉材料として北朝鮮のカードとなったのである。これまで日本政府は、北朝鮮による拉致事件と歴史問題を切り離してきたが、今後の日朝交渉では、両者がリンクする形になるだろう。

参考記事: 北朝鮮ODA利権の行方

日本側は一体全体、どうして慰安婦問題の合意を急いだのだろう。

韓国は今年になって急速に中国寄りになり、日米の陣営からの離脱が鮮明になった。これは韓国の「反日」が要因の一つではあるが、何よりも中国の覇権が巨大になっている事が大きな理由だ。韓国の反日を多少なだめたところで、離米従中路線にブレーキをかける事はできない。

おそらく、背景には安倍政権で親韓勢力の影響力が増大している事を背景としていると思われる。2016年には勢いに乗った親韓派の圧力で、日韓スワップ協定や、平昌五輪への協力、そして日韓友好の演出が進められるのではないか。

 

日本の森林を買い漁る中国の緑化を日本の税金で進める奇怪

中共政権が「西部大開発」と呼ばれる中国内陸部への大々的なインフラ投資を開始したのは2000年の事である。沿岸部と内陸部の格差是正を目的とした経済計画であるが、西域の漢化を進め、辺境地域における漢民族支配を確立し、西部における国防上の懸念を無くすという政治的な動機による計画でもある。

驚いく事に、日本政府は江沢民政権が打ち出した西部大開発を円借款や無償などで支援した。その内容は緑化事業で占められており、それまで沿岸部で実施したような土木インフラではないため、「地球環境」や「砂漠化防止」という魔法の言葉で、なんとなく問題とはならなかったのである。その金額は2000年から2006年まで約1100億円に達する(ただし「承諾額」なので実際の供与額はこれより小さいはず)。なお、日本が新規の対中円借款を中止したのは2008年である。

同じ時期、中国に対しては約8,600億円の円借款を供与しているから、約13%は西部大開発に向けられたものであった。円借款以外にも、無償資金協力や技術協力が続けられたが、ここでは割愛する(ググるのに疲れた)。

日本が支援したのは緑化であったが、中共が重点的に投資したのは鉄道による地域統合などのインンフラ整備だ。そして、大西部開発はシルクロード構想へと、中国による覇権に結びついている。要するに日本は、環境とか緑化の美名のもとに、中共によるウイグル、チベットなど小数民族の弾圧と中国の覇権拡大に貢献してきたのである。

さて、最近話題となっている日中緑化交流基金が活動を開始したのは2000年で、中共による西部大開発の時期と一致している。この日中緑化交流基金が直接植林を行うわけではなく、国内のNPOなどに2000万円を上限として資金供与するものだ。これが本当に植林に利用されたのか、外部からは確認しようがない。この基金の助成額は2000年からの10年間で49億円に達している(日中緑化交流基金のHP)。

表向き対中ODAを止めておきながら(完全には中止してはいない)、別チャンネルで中共の政策に協力を続けているのである。

近年、中国企業による日本の森林資源の買い漁りが活発化している。日本の国防にとって深刻な状況にあり、政府は本格的な対策が必要だ。水資源として重要な本土の森林だけではなく、離島の森林も保護しなければならない。

中国における緑化は、中国が自らの資金で実現しなければならない。中国の環境保全は、大国となった中国が自ら果すべき国際的な義務である。その義務の一部を日本が肩代りすることは、中共による小数民族弾圧と覇権国家化を間接的に支援する事と同じである。

政府は、補正予算で100億円を日中緑化交流基金に支出する予定である。PM2.5などの越境汚染を軽減できる、など正当化するような報道もあるが、砂漠に木を植えても、沿岸部で森林破壊を進めているのだから、日本への便益はない。そもそも中国による環境破壊を和らげるために日本の税金を使うなど、納税者をバカにし過ぎている。

日中緑化交流基金を活用している団体には、「○○日中友好協会」というローカルの親中団体が多い。「日中友好」を組織的に進めている団体は、日米の間を裂き、中国による日本の間接支配を目指しているものだ。これらの団体活動を日本の税金で継続させるのはおかしな話だ。

 

秀吉を怒らせたキリスト教徒の蛮行

今日はクリスマスイブである。日本ではサンタクロースとクリスマスツリーのイルミネーションの祭典であるが、キリスト教徒にとってはイエス・キリストの生誕前夜という聖なる一日である。

日本にキリスト教が伝わったのは1549年、イエズス会のザビエルによる布教が最初である。戦国時代の日本にあって、キリスト教の布教は進み、キリシタン大名が多数登場するようにもなった。やがて秀吉が弾圧し、江戸時代には更に踏み絵などの手段で弾圧が強化され隠れキリシタンとして地下に潜った、とされる。

豊臣秀吉は「バテレン追放令」を1587年に出した。内容は次のようなものだ。
1 日本は神国である。邪法を広める事は許さない
2 キリシタン大名が神社仏閣を破壊するのは許さない
3 バテレンは20日以内に帰国せよ
4 南蛮船の商売は継続できる
5 今後、仏法を妨げなければキリスト教国から来る事は自由である

上記の2以外はバテレン(神父)の追放と、それ以外の南蛮人への命令であり、日本の信徒を対象としたものではない。特徴的なのは2で、日本人を対象としたものだ。そして、その内容は、キリシタン大名が日本の神社仏閣を破壊していた、という事に対する怒りである。

戦後のマルクス史観に染まった教育では、「神の前に人は平等とするキリストの教えが、身分制を前提とした権力者に都合が悪かったので、秀吉らはキリスト教を弾圧した」と主張している。しかし、それは完全な間違いである。唯一神の思想に染まったキリシタン大名が、イエス・キリスト以外を神と認めない不寛容さで、寛容な日本の文化を破壊していたのが問題だったのである。

バテレンらが日本で牛や馬を食べていた、という点も秀吉には許せなかった。日本にはその習慣がなかった、という単純の話ではなく、馬は輸送の、牛は耕作にとって大切な存在であり、日本の生活基盤を脅かすものであったのだ。

大航海時代、スペインなどの列強はキリスト教を広めて現地の思想的文化を破壊し、現地の生産基盤や文化基盤を破壊し、植民地化していった。日本では食用でなかった牛馬を食する行為は日本の生活・文化を破壊し植民地化する過程だったのである。

更に見逃せない事がある。キリシタン大名は日本人女性を性奴隷として南蛮人に売り飛ばしていたのである。左翼教師が全力で隠蔽した事だ。商売で来ていたスペイン人と宣教師は別者だという言い訳は通用しない。キリスト教徒と奴隷商人は表裏一体であり、キリシタン大名というのは、キリスト教徒であると同時に日本人を奴隷として売っていた連中だったのである。

1597年、秀吉は布教活動を続けるバテレンに業を煮やし、26人のキリスト教徒を長崎で処刑した。処刑された26人は聖人として扱われる一方、戦後教育ではキリスト教弾圧を日本の黒歴史として教えられている。

しかし、当時の国際情勢を見れば、そして日本国内におけるキリスト教徒の蛮行を見れば、秀吉の命令はおかしなものではない。戦国時代にあっては、敗北した側の一族郎党は同じように処刑されていたのである。

当時、フィリピンはすでにスペインの植民地であった。キリスト教の布教を許せば、やがて日本が西欧の植民地となる可能性もあったのであり、秀吉は日本をすくった英雄と言える。

さて、長崎で処刑された26人は聖人として、ヨーロッパでは尊敬されているそうだ。それでは、同じ時期にカトリック教のスペインがオランダで処刑した多数のプロテスタントはどうなのか。

そもそも同じ時代にキリスト教社会でカトリック教徒がプロテスタントを弾圧した苛烈さに比べれば、日本人を奴隷として海外に売り渡していたキリスト教勢力を駆逐しようとした秀吉の行為は、全く穏当な理性の範囲内であった。

 

日本の朝鮮統治より長い北朝鮮による拉致監禁

今年は戦後70年ということで、歴史問題が例年以上に話題となった。中韓による歴史戦が国内言論界に与えた影響も大きい。歴史戦は、実際には領土問題である。韓国は我が国から簒奪した竹島占領を正当化するため、中国は尖閣はじめとした日本の領土侵略を正当化するため、歴史問題を持ち出しているのだ。

また、安保法制の議論では、中国の利益を代弁する左翼が「徴兵制」やら「戦争法案」などというプロパガンダで国民世論を欺いた一年でもあった。さらには従軍慰安婦問題やら軍艦島の話題、そして南京大虐殺という捏造史まで登場し、安倍政権を倒すためなら中韓を利してもかまわないという左翼の売国ぶりが明らかとなった。

一方で北朝鮮については、今年はあまり語られる事がなかった。拉致問題解決の交渉が停滞しているためであるが、政府は制裁措置を強化もせず、対話の開始もせず、結局何もしなかった。

政府の側だけに問題があるのではない。国民の意識が拉致問題から離れてきている、というのも事実である。何しろ北朝鮮による拘束されたままの横田めぐみさんが拉致されたのは1977年、すなわち今から38年前のことである。大日本帝国が大韓帝国を合法的に合併したのは1910年で、その後日本が朝鮮半島の統治を放棄したのは1945年である。つまり、日韓合邦期は35年間であった。北朝鮮によって拉致された人は、それよりも長い期間、北朝鮮に拘束されたままなのだ。

一部の左翼、そして大半の朝鮮人は、日本による朝鮮の植民地支配に対する謝罪や反省・補償がないことが問題だ、として、あたかも罪を罪で相殺すべきかのような主張をしている。これは朝鮮人に顕著な考え方で、自分の主張を通すためなら何をやっても許されるという思想だ。産経新聞の支局長を不当に拘束して起訴し、無罪にしたから日本は譲歩しろ、という異様な発想も同じである。反日無罪、というわけである。

私が北朝鮮による拉致の期間と日韓合邦期の長さを比較しているのは、拉致された人々の拘束期間の長さをイメージしてもらうためだ。日韓合邦は非難されるべきものではなく、日本が謝罪すべきものでもない。もし日韓合邦を罪と見做して朝鮮・韓国の日本に対する不当行為と比較するとすれば、それは左翼の妄想史観であると同時に、罪を罪で正当化するという半島人の発想だ。

話を戻す。北朝鮮による拉致は当初は奇妙な失踪事件として関心も低かったが、20年後になって真相が明らかになるようになり、そして2002年に北朝鮮が拉致を認めるに至った。

拉致問題は、北朝鮮を支持してきた社会党はじめとする左翼勢力には大きな打撃であったが、同時に彼らが歴史問題を重視するきっかけともなる。これは、共産主義対自由主義というイデオロギーに敗北したというのも要因としては大きいが、日本よりも朝鮮の方が好きという左翼が、朝鮮の利益を守るために拉致問題の相対化を狙い、歴史問題を騒ぐようになったのである。

そして、拉致被害者のうち5人が帰国してから13年である。この間、確かに社会党は壊滅したが、反日左翼は着実に勢力を伸ばしている。時間の経過は日本にとって不利な要素となっている。在日中国人の増加にともない、中国による日本国内の世論工作が静かに、そして確実に浸透してきてきるからだ。

 

「結婚」も「夫婦」も「名前」も定義していない憲法に何を期待しているのか

最高裁判所が「夫婦別姓は合憲」と判断を下した事が大きなニュースとなった。「夫婦別姓は違憲」ならニュースだが、一体全体この判決の何にニュース価値があるのだろうか。私自身は夫婦別姓に関して強い自己主張があるわけではないが、この問題を憲法判断に持ち込む事自体は、左翼の反日運動の一貫と理解している。

憲法で結婚について定めているのは第二十四条である。『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。』とある。

奇妙な事に、この条文で登場している「婚姻」も、「夫婦」も、「配偶者」も、同じ憲法の中に定義している箇所はない。したがって、この条文だけでは何を言っているのか、何を定めているのか不明なのである。この条文の意味を正しく理解するためには、これらの用語を憲法の外側で定義しておかなければならない。

「婚姻」とは何なのか。「夫婦」とは何なのか。憲法は何ひとつ定義しないまま、両性の合意と平等を主張しているのである。「両性」の定義もないが、文字通り見れば性が異なる者同士である事は明らかであろう。つまり「婚姻」も「夫婦」も明確には定義していないが、それは同性の間では成立しない事を憲法は明記しているのである。

だから「同性婚は違憲」は憲法から導き出せるが、「夫婦別姓は違憲」というのは憲法からは結論できない。もし「夫婦別姓は違憲」という判断が出るなら、それこそ解釈改憲どころではない。最高裁判所が憲法に条文を追加できる、という事になってしまい、もちろん、そのこと自体違憲である。

今の日本国憲法は、日本国における家族のあり方までは規定していない。それは憲法以前に日本社会の中に存在している姿であり、場合によっては時代とともに変遷していくものだ。そもそも、人の名前を、姓と名の二つで構成するという事自体も、憲法の関知しないルールなのであり、その事について合憲だの違憲だの騒ぐのは全く意味がない。日本国憲法自身も相当に困惑しているのではないだろうか。

憲法が法律の最上位にある定めである事はその通りだが、日本国のあり方を決める最上位のものではない。「婚姻」も「夫婦」も、憲法が制定された当時に日本にあった概念を前提としているのである。つまり、日本国憲法の前に、日本国という存在があるのである。祖先から引き継いだ日本という社会、歴史、文化、そういったものが憲法よりも重要な判断基準として存在しているのである。

上記の事は、憲法を軽視しているという事ではない。憲法の最も重要な機能は、意思決定のルールを明記する事である。「婚姻」と「夫婦」の定義も示さない憲法が、国会が衆議院と参議院で構成される事、その任期が4年と6年であること、予算は先に衆議院に提出しなければならない事など、細かい事まで定めているのである。

意思決定のメカニズムを固定しておくことは、民主主義において重要な事だ。もちろん、問題があれば柔軟に修正していかなければならない。もし、憲法の枠組みの中で定められた法律(すなわちそれば民主的に制定された法律であるはずだが)の中に「違憲」なものがあるとすれば、それは法律が悪いのではなく、意思決定のメカニズム、すわなち憲法に欠陥があるという事である。