となり町戦争~支那に侵略されたチベット

今年8月15日、チベットのラサとラサ西方に位置するシガツェとを結ぶ全長253kmの鉄道が正式に開業した。この路線はヒマラヤ山脈の北麓を東西に結ぶものであるが、中国の鉄道開発のスピードを考えると、ひょっとしたら地形的な困難を克服してそのままパキスタンのイスラマバードまで行ってしまうのでは、というような勢いである。

チベットは清王朝の冊封体制下にあったとは言え、独自の文化を持ち、民族を形成する一国家である。常に歴代支那王朝の属国だった朝鮮半島に比べれば、はるかに独立性の高い国家であった。

一方で第二次世界大戦後、国民党との戦争に勝利した中国共産党は1949年になってチベットへの侵略を本格化させた。1950年にはチベット進駐を中華人民共和国が宣言。1951年には中国軍がラサに侵攻して17カ条協定を押しつけ、チベットは中国の支配下に置かれる事になった。

この間、チベット側は中共の軍隊と戦ったが、戦力の差は大きく、中国人民解放軍の侵略を阻止しる事は出来なかった。1959年にダライ・ラマはチベット臨時政府の発足を宣言した後、インドに亡命した。

当時の日本は朝鮮戦争という大動乱に直面する一方、主権回復に向けた講和条約問題が最大の関心事であり、支那大陸奥地の出来事に口を挟む余裕は全くなかった。国際社会も同様であり、朝鮮半島の緊迫やインドシナ戦争など激動の中にあって、チベットでの出来事は傍観するより他になかった。

よく、大東亜戦争が世界の植民地解放を促した、という主張がある。しかし、それはチベットには当てはまらない。日本が英国を東南アジアから追放した結果、インドは独立し、英国は中共によるチベット侵略を見ても、何も行動できなかった。チベットは独立を失ない、中共に併合されてしまった。

支那事変以降、チベットは日本と蒋介石・毛沢東との戦争に対して中立を保った。この国が日本の敗北によって中共に侵略されたのだ。日本がアジア諸国に謝罪しなければならないとすれば、それはチベットであろう。

さて、仏教が自然に在来神道を結びついてきた日本にとって、ダライ・ラマの存在はローマ法王よりもずっと身近な存在である。一方、安倍首相はローマ法王に2015年の来日を要請したそうだ。国内での政治ショーに利用するつもりであろうが、安倍首相はダライ・ラマにこそ会うべきであろう。

強制連行の有無こそ従軍慰安婦問題の核心だ

朝日新聞が8月5日に掲載した慰安婦報道に関する検証記事をきっかけとして、左翼側の理論武装は新たな領域に入ってきた。慰安婦問題では、朝鮮人女性が慰安所に来たのが旧日本軍あるいは日本政府による強制だったのかどうか、という点は関係が無い、というのだ。というのは、吉田証言の完全否定により日本側から強制連行を証明する資料は皆無となってしまったからである。

左翼はこれまで強制を広い意味で定義する事により、あくまで強制という言葉を残そうとしてきた。業者の甘言や人身売買によって慰安婦となった場合も本人の意思に反しているのだから強制だと主張してきた。朝日新聞が吉田清治の証言を嘘と認めた今、軍人やら役人が村々の少女を拉致したというストーリー以外の内容で強制という単語を残すためには、強制性の広義の解釈は反日左翼にとって不可欠である。

一方で、慰安所にどのような経緯で来たのかとは関係なくても性奴隷だったとの理論武装もしている。つまり元慰安婦と称する老婆の証言を信用して、慰安所での扱いが性奴隷だったと主張しているのだ。これで、どう転んでも日本が悪いという結論は維持しようとしている。

しかしながら、元慰安婦と称する連中の証言は慰安所の生活だけではなく、旧日本軍または日本人役人の誘拐まがいの強制連行がセットとなっているのは消しようがない。彼らが主張するような方法による日本による拉致が事実でないとすれば、従軍慰安婦に関する韓国側の証言は全て崩壊するのである。この崩壊を避けるためには、慰安所まで行ったのは業者に騙されて行ったのだ、というように証言を変えなければならない。

従軍慰安婦性奴隷説というのは、吉田清治の証言と韓国人老婆の証言で成り立っている。今や前者の証言が崩壊している事は朝日新聞も認める所である。そして韓国人女性の証言が狭義の意味での強制連行に立脚している以上、その意味での強制連行があったか、なかったかという事が従軍慰安婦の真偽を確認する最大のポイントなのである。

「業者に騙されて慰安婦となった事も強制だ」と主張する左翼は、実は同時に元慰安婦なる女性の証言は嘘であると主張している事にもなるのである。このため慰安所では性奴隷だったなどと嘘に嘘を重ねて時間稼ぎをしているのだ。

武器製造法まで教えていた朝鮮人学校

東京都立朝鮮学校とは、1949年から1955年まで東京都が設置した朝鮮人学校である。GHQの団体等規制令(1949年)によって都内にある朝鮮人連盟の学校が解散されたため、GHQの指導によりそれらの学校を東京都が引き継いだのである。

都立であるから、当然日本の教育基本法(1947年3月31日)に従う必要があるが、同時に運営にあたっては、東京都から必要な補助金が支出される。朝鮮人学校には当時のお金で年平均7500万円が支出されていた。

都立朝鮮学校が「各種学校」に移行し、学校法人に引き継がれたのは1955年の事である。都立学校のままでは、教育内容や設置基準に各種制約があるため、比較的自由な教育が可能となる各種学校を選択したのだ。

それでは、どのような教育が行なわれていたため、東京都はこの都立学校を廃止したのだろうか。

第一に、金日成の肖像画を掲げて生徒に宣誓をさせていた。次に指定した教科書を利用せず、朝鮮語の「資本論」、「レーニンと社会主義」といった思想書に、「スターリン、金日成、毛沢東の人物、闘争記」といった革命礼賛書、そして「パルチザン戦法解明論」というゲリラ戦の理論まで使って赤化教育を行なっていたのである。

さらに、物理の授業では毒ガスや爆薬の理論を教え、手製ピストルやパチンコ玉を利用した爆弾や、時限爆弾などの実験がされていたというのだから驚く。

都教育委員会は、そのような学校側に対し何度も勧告してきたが、一向に是正されないため廃校を決定した。あたり前だろう。戦後貧しい時代に日本で、どうして反日教育を進める朝鮮学校に5年間も補助金を払い続けたのか、その方が不思議である。

廃止後は私立学校とする案もあったが、その場合でも教育基本法による制約が残るため、各種学校として残る事になった。

この時代、朝鮮人社会は日本共産党と同様に日本を共産化する事を画策していた。当然、そこには日共と朝鮮人社会の結びつきがあった。ソ連と中共による世界の共産化の流れの中で、金日成の祖国防衛と日共の暴力革命は密接に関連していたのである。

そのような状況の中では、本来は朝鮮学校は全て禁止すべきものであった。その後の高度成長の中で当時の記憶は忘れ去られるようになったが、教育現場の反日化は進行し、地方自治体が勝手に朝鮮学校に補助金を出すようになった。だが、朝鮮学校での反日教育路線はいまだに変更されていないのである。

なお、本日の記事は昭和30年9月22日の時事新報による。

時事新報50-09-30 朝鮮人学校

右傾化の分析~無関心層の一時的な義憤

今日は以前の記事、右傾化の進行レベルで分類したもののうち、「竹島・従軍慰安婦問題を契機とした義憤的愛国」について取り上げる。

民主党が政権を獲得したのは2009年、ごく最近の事である。小沢一郎はじめとする政権与党は在日韓国人への選挙権付与を画策していた。また当時は韓流ブームが日本を席巻し、朝鮮通信使イベントによる町おこしなど、日本全体が韓国の軍門に下ったかのような様相を呈していた。

状況が一変したのは当時の李明博韓国大統領による2012年の竹島上陸である。これにより、長年日本人が忘れていた竹島の領土問題に火が付いてしまった。

また同じ時期に韓国による従軍慰安婦捏造が世界中に宣伝されるようになった。2011年には韓国の日本大使館前に慰安婦像なる銅像が設置され、その後アメリカで続々と慰安婦像が設置される事になる。

韓国だけではない。中国が尖閣に対する領土的野心を露骨に行動に示すようになり、2010年には中国漁船が尖閣沖で違法操業を強行、海上保安庁の巡視船に体当たりする事件が発生した。

これらの事件は全て中国・韓国寄りと言われる民主党政権時代に発生したものである。日本が「友好」重視の姿勢を少しでも見せると、中国・韓国がそれに付け込んで要求をエスカレートさせるという法則は実に不変なのであった。

韓国と中国による一連の反日行動は、政治に無関心だった一般の日本人を激怒させてしまった。これが今日右傾化と呼ばれているものの原点である。その内、少なからぬ人達が更にその次の段階の右傾化へと進む事になるが、大半の日本人はここで留まっている。普通の人は日常生活に忙しくて政治やら歴史にかまってられないからだ。

以下の図は、このレベルの人達の右傾化チャートである。この人達は、一時的に日本人である事による当然の義憤から右傾的な思想を持っただけであり、時間が経てば元の無関心層に戻る。竹島については李明博の上陸から2年が経過し、そろそろ忘れている頃だ。

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今年になって安倍政権を苦しめた集団的自衛権の行使容認問題では、日本人の多くが戦後左翼の呪縛から解放されていない事が示された。竹島問題で急速に右傾化したように見えても、大多数の国民は政治的に無関心な中立層なのである。

韓国の不法占拠後に消えた竹島のアシカ

韓国人は竹島のアシカを日本人が絶滅させたと思っているらしい。今年7月29日の韓国のニュースサイトNEWSISでは、「日帝強占期に絶滅させた独島アシカをキャラクターにして」云々と述べている。

ところが、アシカは日本による朝鮮統治が終了した戦後になっても、竹島に存在していた。これはネットで調べれば多くの証拠が見つかる。以下は昭和26年11月24日の朝日新聞の記事『日本へ還る無人の「竹島」怪奇な”アシカ”の群』の一部である。

これがかつてはアシカ、海草、貝類の漁場として隠岐島民のドル箱だった島だろうか。マストと見間違った西島の頂上は、まるで槍ガ岳を思わせるようで、真直ぐ天を指している。高さは海抜三百八十一尺、東島は二百二十六尺といわれており、風化した安山岩と玄武岩がカサカサに覆っている。

両島の間にある長さ約百メートルの海峡には大小無数の岩礁。東島のすぐ東側から回り込むと、すぐ左横に直径十メートルある大きなホラ穴が口をあけ海水が奥に流れ込んでいる。

これが有名な火口底なのだ。一木一草もない絶壁で、とりつくシマもない。このあたりの岩礁は初夏のころにはアシカが群集し、産室になることで世界的にも有名である。

西島に進むと、黒い2メートルもあるアシカがズボッと波間に現れ、弓なりに身体をそらせるとふたたび海中にもぐり込んで行く。水門のようにそそり立つ五徳岩から西島の北側にかけて、次第にアシカの姿がふえて行く。ウォツウォツというなき声が、この島の怪奇なフンイキの中ではうすら寒くまた気味わるい。五、六十頭はいるようだ。

これは同年11月14日に現地に訪れた朝日新聞記者によある記事である。ちなみに記事のタイトルで「日本へ還る」とあるのは、同年9月8日のサンフランシスコ講和条約により、日本の漁業が禁止されたマッカーサーラインが廃止される事が決定し、竹島周辺で漁業が再開できるようになった事を背景としている。国民は講和条約が発効する翌年4月28日を心待ちにしていたが、その間、突然に李承晩が竹島の領有権を主張する李承晩ラインを設定する事になる。

さて、近世に日本がアシカを乱獲したのは事実だが、それでも1941年にはアシカ漁を中止している。その後は上記の記事にもあるように、竹島はアシカの繁殖場として貴重な島であった。竹島のアシカは1970年代には絶滅したようであるが、理由は諸説あって定かではない。しかしながら、日本はアシカ漁の再開を出来ず、韓国による不法占拠の時代に絶滅した事は確かである。