右傾化の分析〜嫌韓にもいろいろ

嫌韓ブームが絶好調である。書店には嫌韓本が並び、ヘイトスピーチのニュースがテレビでも流され、ネット以外の経路でも嫌韓情報が巷に溢れるようになった。これだけ短期間に大量の嫌韓本、ニュースが流通すると、さすがにネタも尽きるだろうから、今年から来年にかけてが嫌韓ブームのピークとなるだろう。

嫌韓の風潮はもちろん右傾化の流れと無関係ではない。左翼は概ね嫌韓派ではないし、嫌韓情報に触れていれば自然と戦後レジームの脱却といった思想に合流するからだ。

一方で嫌韓派が全て改憲派というわけでもないし、戦後左翼教育から脱却するほど歴史の勉強はせず、単に韓国を笑いや蔑視の対象として扱っているだけの嫌韓派も多いに違いない。今回の話題は、そういった人達が対象だ。

私は嫌韓本は読んでいないので何が書かれているのか知らないが、ネットの情報で内容は想像できる。最近の潮流として保守派の韓国嫌いというのは確かなので、嫌韓を右傾化と捉えがちだが、彼等の興味の対象は必ずしも保守派の思想とは関係がないものが多い。

水車が作れなかったとか車輪が無かったとか、トンスルやら乳出しチョゴリ、そういった話題は面白いかもしれないが、政治とは無関係である。

また、あまり世界の事を知らずに韓国だけに夢中になって、的外れの情報で喜んでいる例も多い。

例えば韓国ではトイレットペーパーを便器に流さずゴミ箱に捨てるという話題。彼等はこれで盛り上がったりするのだが、実はトイレットペーパーを便器に流さない国は世界中にいくらでもある。そういった習慣を知らず海外に行ってトイレを紙で詰まらせて迷惑をかけているのは日本人だ。

韓国では強姦が多いといって騒いでいるが、世界的に問題視されているのはインドである。韓国変質者のニュースにしても、日本にだって変質者のニュースは多い。その他、いろいろなドジなニュースでも盛り上るが、世界にはもっと面白いニュースで溢れている。

面白話題としては韓国軍のマヌケぶりが注目されているが、これも世界を見ればドジな軍隊はいくらでもある。自衛隊だって昔は間違って民間の重機に発砲したという事件もあった。

嫌韓は今日の日本の政治に重要な役割を果している。ところが一部の嫌韓派は政治に興味を持つのではなく、韓国にばかり興味を持つようになっているようだ。日本と韓国しか知らない人達が嫌韓に夢中になって視野が狭くなってしまうのは良くない。

右傾化チャート5

日本がカンボジアへの移民を考えていた時代に大量流入した密入国韓国人

戦後の日本は貧困国で、中南米への移民再開を計画していたほどである。一方、1953年に独立したばかりのカンボジアへの移民まで検討されていた事はあまり知られていない。2000年、琉球新報によってカンボジア移民について公開文書で初めて発見したかのように報じられ、あたかも米国や日本政府の陰謀であるかのような論調で書かれたが、実は当時の新聞ではおおっぴらに報じられていた話である。何も沖縄の人だけの話ではなく、日本全体の話だったのだ。

秘密でも何でもなかった話を、あたかも秘密であったかのように誤魔化して政府批判につなげるのは左翼メディアの得意とする所であるが、カンボジア移民のケースは話題になった期間が短かかったために、琉球新報は本当に知らなかっただけなのかもしれない。

それはさておき、シアヌーク国王は1955年12月に友好条約締結のため来日し、その際に日本から計5万人の移民を受け入れると表明した。当時の日本は人口増加が問題となってため、これを大歓迎し、移民への期待が高まった。戦後10年間のGHQ洗脳教育で、日本はアジアから嫌われていると思い込んでいたから、喜びも大きかった。

日本政府はブラジルなど中南米よりも距離的・文化的に近いカンボジアへの移民に期待して、1956年、カンボジア現地に調査団を派遣した。しかし調査の結果、カンボジア側に受け入れ体制が全く整っていない事が判明し、日本からのカンボジアへの移民は実現しなかった。

さて、1956年は、在日朝鮮人への生活保護が大問題となっていた年なのであり、同時に朝鮮半島から日本への組織的密入国が問題となっていた時期でもある。

今から見れば、南米の移民を再開したとほぼ同時期に日本は高度成長への道を歩むのであり、より良い生活を夢みて海外移住した人々にとっては、複雑な気持であろう。特にドミニカ移民などは、後に小泉純一郎首相が政府として謝罪するほど悲惨な人生を歩む事になったのだ。

しかし当時は日本が経済大国になるとは想像できなかった。人々が少しでも豊かになるよう、海外移民も真剣に検討していたのだ。そして、その日本にいて生活保護をむしり取っていたのが在日朝鮮人であり、それを目当てに密入国してくる朝鮮人だったのである。

1956-03-17 産経新聞 カンボジアという国

出典:1956年3月17日 産経新聞 夕刊

タブロイド化が心配な産経新聞

8月上旬に産経新聞の記者が韓国でネットの記事が原因で韓国から出国を禁止されるとう事件が発生した。同時期に朝日新聞の慰安婦問題誤報が大騒動となったので、それとの関係もあるのだろう。韓国の対応は言論の自由に挑戦する野蛮な行為であり、朝日新聞のような大メディアこそ声を大にして非難すべき問題である。

関連記事:朝日新聞の仇を韓国政府が討つ異様な構図

一方、産経新聞の方も、記事の内容が夕刊フジやらゲンダイ、東スポ並みの内容であった事は反省すべきであろう。女性大統領がこっそりどこかの情婦と密会していた、などというのは、朝日・読売・毎日などと肩を並べるべき新聞としては書きっぷりに慎重であるべきであった。

最近、どうも産経新聞の記事が、タブロイドのように見出しで釣っておいて中身の薄い記事で誤魔化すような傾向にあるような気がしてならない。ブログの場合は、当ブログもそうだが、中身はなくても見出しには気をつかってなるべく注目されるような見出しにする傾向にある。それは出来るだけ多くの人に見てもらいたいための工夫であるが、大新聞がそれを真似てはいけない。見出しは記事を端的に伝えるものでなければならない。

ネットで注目されたい気持ちは分かる。しかしネットで利益を上げるにはページを広告で埋めるか、有料化するしかない。しかし前者は新聞としての中立性や品位を損ねるし、後者はリスクが高い。やはり新聞としての格式や品位を維持した上で存続を図るべきであろう。

産経新聞の記事は、それでもまだ毎日新聞や東京新聞の記事や社説に比べれば正常だ(あくまで当ブログのテーマに関係のある分野の話だが)。それだけに、まともな新聞として節度のある記事を掲載し、タブロイド紙のようにならないようにしてもらいたいのだ。

朝日新聞の誤報問題では読売新聞や産経新聞が積極的に取り上げ、毎日新聞も騒いでいるが、これらはあまり高級紙とは言い難い騒動である。局外中立でひそかに高級紙としての印象を強めているのが日経新聞である。

産経新聞は、もともと産業経済新聞であって、そのライバルは日経新聞であるはずだ。もはや経済記事では圧倒的な差があるとは言え、産業界の期待に沿えるような硬派の記事を書くべきであろう。

読売新聞があるじゃないか、と言っても、読売の場合は巨人軍を抱えており、一般の人に広く読まれる新聞としては限度がある。

新聞記事をもとに面白いタイトルを考えるのは、ブロガーの楽しみとして残しておいてもらいたいものである。

朝鮮総連の誕生と日本共産党

来年、2015年は朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)が発足して60周年となる年である。1955年、それまで日共とともに日本国内で革命と称した暴力活動を繰り広げてきた民戦(在日朝鮮統一民主戦線)はじめ朝鮮人の諸団体は解散し、新たに朝鮮総連が発足した。と同時に「暴力日共」の主役を演じてきた朝鮮人約1万人が一斉に離党、朝鮮労働党の指導下に入る事になった。

この年は日本における革命を目指して暴力活動を行なってきた朝鮮人と日本人の共産主義者が、ソフト路線に変更した転換期である。

朝鮮人共産主義者にとっては李承晩政権の打倒と北朝鮮による南北統一が最大の目的であったが、そのために日本で革命を起すという理屈に疑問が持たれるようになったのだ。昭和30年5月25日、朝鮮民主主義人民共和国の支持を掲げ、朝鮮総連が設立された。

一方、日共の方は「赤い朝鮮人」と結託して非合法活動を行なうという悪いイメージからの脱却が必要であった。日本共産党は同年7月の第6回全国協議会(六全協)で武装闘争路線を放棄し、新たな時代に入っていく。

時事新報1955-05-15 時事新報1955-08-8

時事新報(左:昭和30年5月15日、右:昭和30年8月8日)

日共の長い歴史の中で、終戦後からの10年間ほど消し去りたい時代はないだろう。この時代における彼らの唯一の自慢はアメリカ占領軍に弾圧された、という事だけだ。朝鮮人の熱烈な支持を受け、彼等とともに武装闘争を続けていたのが当時の日共だったのだ。一見すると朝鮮人の暴動に見えても、背後には共産党が支援していたケースもあった。

神戸学校騒擾事件(1948)、長田区役所襲撃事件(1950)、血のメーデー(1952)、吹田・枚方事件(1952)、新宿事件(1952)などである。

関連記事:朝鮮人と一緒に革命目指して騒乱を起した日本共産党

北系朝鮮人が分かれた後も、日本共産党は朝鮮労働党と友党関係にあったが、ラングーン事件(1983)、大韓航空機事件(1987)、日本人拉致問題などを背景に距離を置くようになる。慰安婦問題で韓国の反日が突出するようになると韓国に接近。平成18年(2006年)には志位和夫が日本共産党の委員長として初めて韓国を訪問した。

日本共産党は1966年から党員資格を日本国籍に限っており、現在北朝鮮の人間はいない(帰化した者については不明)。

ところで、来年は憲法改正を掲げて結党された自由民主党の60周年でもある。

本多勝一が捏造のために誤用したアサヒグラフの写真

今年の週間新潮9月25日号で、ネット界では良く知られている南京大虐殺捏造写真の一つが紹介された。本多勝一著「中国の日本軍」で掲載された「虐殺の証拠」としての写真であるが、本多勝一自身が週間新潮の取材で誤用を認めたというのだ。

アサヒグラフ

本多勝一が「誤用」した写真というのは、アサフグラフ731号(昭和12年11月10日)に掲載されたもので、日本軍と農民が一緒に橋を渡っているシーンだ。本多勝一は著書の中で、この写真について「婦女子を狩り集めて連れていく日本兵たち。強姦や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ」と記載した。

この写真を利用したのは本多勝一だけではない。笠原十九司は「南京事件」の中で「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」と紹介している。

さて、アサヒグラフのキャプションは「我が兵士に護らて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群」とある。撮影は10月14日でまだ南京には辿りついていない。ところで日の丸部落というのは何であろうか。この写真の横には農村の様子を写した別の3枚の写真もあり、以下のように解説されている。

硝煙なほ煙る揚子江附近の宝山県の片隅に、我が軍の庇護によって平和に帰った二つの部落がある。その一つは『日の丸部落』といはれる盛家橋部落で、入り口には『兵は立ち入るを禁ず』といふ派遣部隊長の告示がある。村長さん格におさまっているのは田窪忠司部隊長で、村民たちから先生々々と慕はれている。約400名の村民は、我が軍の保護によって敗残支那兵の掠奪をまぬかれ意を安んして土に親しんでいる桃源郷である

この写真がアサヒグラフに掲載されていた事を発見したのは秦郁彦であるらしい。ネットではかなり早い時期から指摘されていたようで、10年以上前には誤用が明らかとなっていた。南京事件をめぐる論争、特に証拠写真をめぐっての論争は過去10年続いていたから、本多勝一が今回はじめて知った、というのは嘘であろう。また、朝日新聞が抗議しなかったというのも奇妙な話である。朝日新聞は戦前・戦中の戦争報道を自己批判しており、アサヒグラフの該当の写真について知らなかったはずがないからだ。

参考:南京事件「証拠写真」を検証する 東中野修道ほか