「アジアのスイス」よ、さようなら 清潔すぎた日本国憲法 in 朝日新聞

日本を非武装・中立にするという馬鹿な事を本気でやろうとしたのは戦後の連合国軍であったが、冷戦勃発で間抜けな発想だったと気付き、再軍備と西側諸国との同盟という道を辿る事になった。一方でこの間抜けな発想は冷戦時代の長期化とともに、憲法9条を維持した上で非同盟諸国、いわゆる第三世界に属しようという非武装・中立論となって長い間左翼に支持される事になる。

その頃に理想として挙げられた国家がスイスであり、アルプスの少女ハイジのような平和のイメージとその中立政策が左翼から高く評価されていた。ただ、スイスは非武装ではなく徴兵制を採用する軍事国家である事が知れわたるようになり、最近ではスイスをモデルとした平和主義者は減っているようだ。

実は左翼によるスイス礼賛が馬鹿げた話であるというのは、戦後の早い段階で指摘されていた。しかも朝日新聞の記者によってである。昭和29年10月29日付の朝日新聞に守山義雄という記者が『清潔過ぎた日本憲法』と題して以下のような事を書いている。

筆者は羽田に帰りついて、ふたたび銀座の「人間のうず」をみた。そのときの感想が二つある。その一つは、銀座の人間の数だけは、アメリカのいかなる繁華街にも負けないだろうということ。もう一つは、この国は永久に「アジアのスイス」にはなれないだろうということである。外国軍の駐兵を自らすすんで希望しなければならないスイスというものはないからだ。問題はなかなかむずかしい。戦後六年・・・「東亜のスイス」だなんて、いい気になっていたのははなはだ見通しがわるかった。看板に「清潔なるお座敷あり」とうたっているのは、大方、木曽宿にきまっている。つまり、日本はあまり清潔な憲法をもちすぎたのだ。

この記事から、戦後の新憲法は、当時の国民からアジアのスイスをイメージするものとして期待されていた事が推察される。

ちなみに守山義雄の死後刊行された「守山義雄文集」の中では、同じ朝日新聞記者の足立和雄が南京での目撃談が記載されており、これが南京大虐殺の証拠を補強するものとして取り上げられる事がある。これについては、別の機会に記事にする予定だ。

みんな知っている韓国の独立門

本ブログの主旨は、普通の日本人が、どの様なネットの記事で右傾化していくのか、という分析である。そうすると、どうしても大半が既に知っている事を繰り返す事になってしまうので、ちょっと書きづらい。ただ、最終的には系統的な整理をしたいので、退屈であっても続ける事にする。

ソウル近郊の独立門が、日清戦争の結果として李氏朝鮮が清帝国からの支配から独立(1895年)した事を記念して1897年に建設された門であるという事は、すでに有名な話となっている。

そもそもソウルの独立門の由来が何であるか、という事自体は、歴史的にはそれ程重要な話ではない。これが有名になってしまうような日本の歴史教育の偏向ぶりが注目を浴びてしまうのである。

中国や日本共産党は、日清戦争ですら日本の侵略戦争であると言い張っている。だが日清戦争の戦争目的は、下関条約の条文を見れば明らかなように、朝鮮王朝の大清帝国からの独立にある。今日ではネットで氾濫しすぎている情報であるが、一応その条文を引用する。

第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缼ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

韓国はあたかも日韓合邦によって初めて独立が失なわれたかのように主張しているが、「独立門」が何を記念して建設されたかを考えれば、実は日清戦争以前の朝鮮は独立とは言えない状況であった事が分かる。

もちろん、日本が全くの善意で韓国を独立させてあげたというのは間違いだ。当時朝鮮では清の属国でいた方が良いとする勢力もあったから、彼らにしてみれば迷惑な話であった。

ただし、属国だったからといって、李氏朝鮮が清の一部であったという事ではなく、朝鮮が長く一つの国として存在していた事は確かである。

学校の歴史授業で朝鮮半島の歴史を教える時は、独立門の話題から入るのが良いのではないだろうか。

東京新聞 昭和27年5月17日 社説『朝鮮人問題をどうする』

引用のみ。コメントは後日。

独立後最初の対韓送還船山澄丸は四百十名の送還朝鮮人をのせたまま、韓国当局から上陸を拒否されて内地に引き返した。韓国側の拒否の理由は明確ではないが、出入国管理庁の推察するところでは、これら韓国人が韓国籍を正式に取得したことを法的に確認し得ないというのがその言分らしい。平和条約発行前まではこのような送還を受け入れていたのに独立を取得した後において、急に態度を一変したことについては、もちろん在日朝鮮人の国籍およびその日本における処遇に関する協定が不調に終ったことが大きな原因であるには違いないが、このほかに在鮮日本財産の請求権や漁業権の問題をからめているのではないかと考えられる。

すなわち、日本にとっては在日朝鮮人の問題は生活上、人口問題上からばかりでなく、一部の急進分子は治安の上からみて非常に危険な存在となりつつあり、これが処置は日本の内政上緊急の問題である。日本当局が困っているということを韓国側が知らぬわけはないから、この問題を利用して他の懸案を有利に展開しようという考えを韓国側が持っているのではないかとの推察さえ生れざるをえないのである。このことは昨年十月から東京で行われてきた日韓会談の席上で韓国側が、日本のポツダム宣言と同時に在日朝鮮人は韓国籍を正式に取得していると主張したのをみれば、最近の主張との矛盾が明らかになる。

はなはだ遺憾なことだが、敗戦後は「日本人ではない」と言い張って連合国の列に入らんとし、独立回復後は「日本人である」として権利を主張するようにみえる。

在日朝鮮人の数は登録されているもの約六十万人のほかに未登録密入国者を入れて七十万とも八十万ともいわれえちるが、その約三分の一は定職を持たず、職業を有しているものでもの大部分は生活困窮者で、現に生活保護法により扶助をうけているものが約六万ある。しかもなお、半島の戦火をのがれ日本に生活のよるべを求めて密入国するのが、月平均百人はあるという。

もとより日韓両国は歴史的にも地理的にもその関係が極めて深く戦前戦時を通じて朝鮮人が日本に寄与した産業上の協力は決して小さいものではない。しかし終戦と同時に一部の態度はガラリと変った。日本人にもその傾向はあったが、特にかれらは従来の生業を捨て、権利を追求し、日本人たるの法律義務から逃れていわゆるヤミ利権に走るものが多かった。次第に日本の産業経済が回復し、国民生活が常態に復すると共に、これらの多くがたちまち生活のキズナを失うことに至ったことは当然である。しかし当然であるといってこれを放置することは日本政府としてはできない。温良なる人々に対しては日本国民と変らぬ処遇を与えて来たし、これからもそうでなくてはならない。

けれども、数十万人のうちには決して温良といえない分子がいる。その数は必ずしも多くはないであろうが、いわゆる北朝鮮系の共産分子が独特の祖国防衛隊を結成して金日成将軍への忠誠、日本における事変の完遂を旗印とし、非合法日共と協同闘争を展開していることは周知の通りである。廿五年十一月の神戸事件をはじめ、各地における騒乱事件の中心に常にこの「祖防」が動いていることが探知されている。彼らにしてみれば、祖国を防衛するための愛国行為だと考えるかも知れないが、日本国民にとっては迷惑な話である。

政府は差当り密入国の現行犯、極度の貧困者、登録法違反者、暴行行為犯などのうち強制送還を要するもの約一万二千五百、生活扶助者六万を含めて約七万とし、残りのものについては申請があれば日本永住を許可し、過去の日本人としての権利、利益も認める方針のようである。もちろん朝鮮における動乱が終息しない限り根本的な解決は不可能に近いが、このまま見送っていたのでは将来抜き難い問題になることが予見される。少くとも暴力行為者に対する措置については、早急に対策を樹てるべきであり、日韓交渉もなるべく早く再開されるように要望する。

となり町戦争~支那に侵略されたチベット

今年8月15日、チベットのラサとラサ西方に位置するシガツェとを結ぶ全長253kmの鉄道が正式に開業した。この路線はヒマラヤ山脈の北麓を東西に結ぶものであるが、中国の鉄道開発のスピードを考えると、ひょっとしたら地形的な困難を克服してそのままパキスタンのイスラマバードまで行ってしまうのでは、というような勢いである。

チベットは清王朝の冊封体制下にあったとは言え、独自の文化を持ち、民族を形成する一国家である。常に歴代支那王朝の属国だった朝鮮半島に比べれば、はるかに独立性の高い国家であった。

一方で第二次世界大戦後、国民党との戦争に勝利した中国共産党は1949年になってチベットへの侵略を本格化させた。1950年にはチベット進駐を中華人民共和国が宣言。1951年には中国軍がラサに侵攻して17カ条協定を押しつけ、チベットは中国の支配下に置かれる事になった。

この間、チベット側は中共の軍隊と戦ったが、戦力の差は大きく、中国人民解放軍の侵略を阻止しる事は出来なかった。1959年にダライ・ラマはチベット臨時政府の発足を宣言した後、インドに亡命した。

当時の日本は朝鮮戦争という大動乱に直面する一方、主権回復に向けた講和条約問題が最大の関心事であり、支那大陸奥地の出来事に口を挟む余裕は全くなかった。国際社会も同様であり、朝鮮半島の緊迫やインドシナ戦争など激動の中にあって、チベットでの出来事は傍観するより他になかった。

よく、大東亜戦争が世界の植民地解放を促した、という主張がある。しかし、それはチベットには当てはまらない。日本が英国を東南アジアから追放した結果、インドは独立し、英国は中共によるチベット侵略を見ても、何も行動できなかった。チベットは独立を失ない、中共に併合されてしまった。

支那事変以降、チベットは日本と蒋介石・毛沢東との戦争に対して中立を保った。この国が日本の敗北によって中共に侵略されたのだ。日本がアジア諸国に謝罪しなければならないとすれば、それはチベットであろう。

さて、仏教が自然に在来神道を結びついてきた日本にとって、ダライ・ラマの存在はローマ法王よりもずっと身近な存在である。一方、安倍首相はローマ法王に2015年の来日を要請したそうだ。国内での政治ショーに利用するつもりであろうが、安倍首相はダライ・ラマにこそ会うべきであろう。

強制連行の有無こそ従軍慰安婦問題の核心だ

朝日新聞が8月5日に掲載した慰安婦報道に関する検証記事をきっかけとして、左翼側の理論武装は新たな領域に入ってきた。慰安婦問題では、朝鮮人女性が慰安所に来たのが旧日本軍あるいは日本政府による強制だったのかどうか、という点は関係が無い、というのだ。というのは、吉田証言の完全否定により日本側から強制連行を証明する資料は皆無となってしまったからである。

左翼はこれまで強制を広い意味で定義する事により、あくまで強制という言葉を残そうとしてきた。業者の甘言や人身売買によって慰安婦となった場合も本人の意思に反しているのだから強制だと主張してきた。朝日新聞が吉田清治の証言を嘘と認めた今、軍人やら役人が村々の少女を拉致したというストーリー以外の内容で強制という単語を残すためには、強制性の広義の解釈は反日左翼にとって不可欠である。

一方で、慰安所にどのような経緯で来たのかとは関係なくても性奴隷だったとの理論武装もしている。つまり元慰安婦と称する老婆の証言を信用して、慰安所での扱いが性奴隷だったと主張しているのだ。これで、どう転んでも日本が悪いという結論は維持しようとしている。

しかしながら、元慰安婦と称する連中の証言は慰安所の生活だけではなく、旧日本軍または日本人役人の誘拐まがいの強制連行がセットとなっているのは消しようがない。彼らが主張するような方法による日本による拉致が事実でないとすれば、従軍慰安婦に関する韓国側の証言は全て崩壊するのである。この崩壊を避けるためには、慰安所まで行ったのは業者に騙されて行ったのだ、というように証言を変えなければならない。

従軍慰安婦性奴隷説というのは、吉田清治の証言と韓国人老婆の証言で成り立っている。今や前者の証言が崩壊している事は朝日新聞も認める所である。そして韓国人女性の証言が狭義の意味での強制連行に立脚している以上、その意味での強制連行があったか、なかったかという事が従軍慰安婦の真偽を確認する最大のポイントなのである。

「業者に騙されて慰安婦となった事も強制だ」と主張する左翼は、実は同時に元慰安婦なる女性の証言は嘘であると主張している事にもなるのである。このため慰安所では性奴隷だったなどと嘘に嘘を重ねて時間稼ぎをしているのだ。