デング熱も防げないのにMERSを阻止できるのか

今日(2015年6月10日)のニュースで韓国の朴大統領がMERS対策のため訪米を延期したそうだ。このことは、ウイルスの感染拡大は、政治を混乱させる要因となり得ることを示している。

MERSは、その致死率は高いものの、人から人へと連鎖的に拡大する事がないため、専門家の間では極端な心配はしていないようだ。このため日本政府の対応も外務省が中国と韓国をひっくるめたスポット情報を提供しているのみで、「不要不急の渡航は延期してください」などを呼びかける感染症危険情報は発出されていない。

現在、日本では不思議なくらい、韓国内での感染拡大に対する危機感がない。一つには嫌韓ブームの影響で、韓国はドジだから感染拡大しているのであって、日本ではきちんと対応できる、という慢心があるだろう。しかし、日本は昨年、デング熱の侵入を許し、しかもその拡大を蚊の活動が収まる時期まで防げなかったという事を忘れていないか。

昨年(2014年)、約70年ぶりに日本でデング熱の患者が報告され、大騒ぎになった。本来、海外でデング熱に感染した人は空港で隔離されて、水際で侵入が阻止されるはずであるが、そうはならず、蚊を媒介に次から次に感染したのである。

デング熱の感染は代々木公園から広まったが、代々木公園で外国人が多く集まるイベントが何回か開催されていたのが原因ではないかとも言われている。

もしMERS患者が何らかの理由で空港の検査をすり抜けて日本に入国できたとすると、どうなるだろう。日本の病院は韓国の病院ほどマヌケではないかもしれない。しかし日本人だってマヌケはいるし、全国全ての医者・病院が適切な対応するとは言えない。

日本国内で、韓国での感染拡大に呑気なのは、今回の事態を楽しんでいる嫌韓派ばかりではない。例えばNHKは、韓国でのMERS感染拡大に対して全く心配がないような報道をしており、中東のラクダが原因だという事を強調している。日本中がMERSを心配していないようなのである。

朴大統領の訪米延期のように、ひとたびMERSが感染拡大をはじめると政治は混乱する。そして、現在の政治、特に開催中の国会が混乱して安倍政権が必要な法案を通せなくなる方が都合の良い勢力があるのは意識しておくべきである。

すでに安保法制の議論は左翼のペースで進んでいる。また、年金機構の情報流出という問題が発生し、野党は大喜びだ。もう一押しあれば、安倍政権を窮地に陥れる事ができる。

そう考えると、「日本でもMERSの感染が広がれば良いのに」と内心思っている左翼がいても全くおかしくない。韓国は安全だ、MERSは心配ないという情報を流しているメディアも、「誰か持ち込んでくれないかな」と期待しているかもしれない。

すでに感染の疑いで隔離対象となった韓国人がフィリピンに旅行に出掛けたとのニュースもある。愛国的韓国人が、ある意思をもって感染者を日本に入国させる事に協力することだって有り得る。

今まで韓国は安全だと言ってきた勢力が、急に政府の甘い対応を批判しはじめたら、その背後を探ってみるべきであろう。

中共をナチスにたとえるフィリピン大統領

6月2日から5日まで日本を訪問した来日したフィリピンのアキノ大統領が、3日の都内の講演会で中国をナチスに喩えた。このニュースにギョッとした人も多かったのではないだろうか。

アキノ大統領は、昨年(2014年)の2月にもニューヨークタイムズ紙のインタビューで中国を1930年代のナチス・ドイツに喩え、国際社会の行動を促している。

アキノ大統領が取り上げたのは、1938年にドイツがチェコのズデーテン地方に進駐した事件である。ヒトラーはオーストリア併合後に軍事力を背景としてズデーテン地方割譲をチェコに要求した。仲介役となったイギリスのチェンバレン首相はナチスとの戦争を恐れ、ヒトラーの要求を認めてしまう。その後、ナチスは次々に領土を拡張していった。

では、当時のナチスドイツと現在の中共とは何が共通しているというのだろうか。中国は南沙諸島(スプラトリー諸島)の実効支配を着々と進めている。地図で見れば明白であるが、スプラトリー諸島はマレーシアの北側で、フィリピンとベトナムの間に位置しているが、大陸からは随分離れた位置にある。

中国の領土とは言えない地域に中国海軍が進出し、フィリピンが領有権を主張している島に恒久施設を建設している状況に、フィリピンは大きな脅威を感じている。国際社会が中国に遠慮して何も行動を起さない状況は、まさに1930年代にナチスの拡大を許した欧州の状況に類似しているのだ。

しかし、それにしてもある国をナチスに喩えるとは、ただ事ではない。日本では共産党はじめ左翼が毎回のように自民党の首相をヒトラーに喩えるため、ひょっとしたらヒトラーとは誉め言葉なのかと錯覚してしまうが、国際社会では「ナチ」とか「ヒトラー」というのはとんでもないヘイトスピーチなのである。嫌韓派に「おまえは韓国人みたいだ」と揶揄するどころの話ではない。命を賭けるほどの発言なのである。

アキノ大統領は、さすがに国際感覚がわかっていて、中国をヒトラーだと言って非難しているのではなく、むしろ何もしない国際社会に警告する方に重点を置いている。

とは言え、近年におけるフィリピン国民の対中国感情の悪化は想像以上であることが分かる。

フィリピンでは1991年6月のピナツボ山大噴火により、クラーク空軍基地とスービック海軍基地がアメリカからフィリピンに返還された。中国がスプラトリー諸島で軍事的活動を活発化させたのはその直後であるが、国際社会は傍観したまま、中国の実効支配が強化されていくことになる。

クラークアやスービックなど、米軍関連施設の跡地は、その経済特区に指定されるなど開発が進み、近年における経済成長にも貢献している。しかし、その代償はあまりにも大きく、フィリピンンは領土喪失という事態に直面しているのである。

アキノ大統領がニューヨークタイムズに語った内容を、今年になって日本で述べたことには意味がある。もちろんバランスを考えて安倍首相との会談などではなく、講演会の場での発言ではあるが、そのメッセージは明確だ。中国の拡張主義に対し、日本はナチスの暴走を許したヨーロッパ各国のような傍観者であるべきではない、という事である。

そもそも日本は当事者である。中国は尖閣諸島の領有を明言するばかりか、2013年には防空識別圏まで設定して日米同盟に挑戦してきた。また中国漁船を大挙日本の領海に送り込み、日本への侵略を着実に進めている。

アキノ大統領の任期は2016年までである。安倍首相には来年の参院選が控えている。中国の覇権拡大が明白となっているなか、周辺国の団結を継続できるのか、歴史の大きな転換期にあるのである。

 

【赤旗】金子書記局長のルーマニア訪問に同行して

チャウシェスクと日本共産党の親密な関係で指摘したように、日本共産党はルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊する直前まで親密な関係を築いていた。今日はその補足資料である。下記の記事は1989年1月25日の記事である。昭和天皇崩御後で、共産党が天皇制批判と昭和天皇に対して戦争犯罪者として個人攻撃を激化させている最中、独裁者チャウシェスクとの親交を温めていたのである。同年12月、チャウシェスクは民主主義革命により捕えられ、クリスマスの日に処刑された。
赤旗チャウシェスク記事

有働正治

十四日、成田空港をたち、二十二日帰国の日程で、ルーマニアを訪問した金子書記局長に同行した。ルーマニア訪問ハ一行のなかでは、私だけがはじめてであった。東部を黒海に面し、総延長三千キロ近いドナウ川の流れの三分の一を抱えたルーマニアまでの距離は、途中、西独のフランクフルト経由でおよそ十五時間ほどかかる。距離的には、遠くへだてている。しかし、訪問を通じもっとも痛感したことは、両党は同志的な友情という点では、距離の通さとは逆に、大きな共通点で結ばれているということであった。

熱心にメモしその場で応答

金子書記局長の今回の訪問の目的は、宮本議長の親書伝達と協議のためだった。金子書記局長のルーマニア訪問は、昨年十二月にも予定されていたが、日本の国会が重要問題で延期されてきたので、ことしになったものだった。

チャウシェスク書記長との会談は十七日おこなわれた。金子書記局長は、旧知の間柄であるチャウシェスク書記長と、ブカレストでは三年数ヶ月ぶりの再会を喜んだ。会談は、二時間近くに及んだ。会談は、二人だけの会見という方式でなく、一行全員が参加し、一つのテーブルに向き合うという、いわば会談方式がとられた。

宮本議長の親書内容を、はっきりとパラグラフごとに伝える金子書記局長発言をチャウシェスク書記長は、うなずきつつ同時に熱心にメモをとっていた。あとで聞いてみると、チャウシェスク書記長がメモをとることはめずらしいとのことであった。

金子書記局長の発言をうけ、チャウシェスク書記長が発言した。チャウシェスク書記長は、宮本議長の親書への氏の見地を即座にのべた。宮本議長からの挨拶への感謝と議長への挨拶、この間の事態の推移が、八七年の宮本・チャウシェスク共同宣言の評価と立場の正しさを証明していること、国際情勢を科学的に分析すれば諸国人民の重要な役割を証明していることの認識での双方の見地、共同宣言の重要性の確認などであった。一つ一つの言葉、評価を明確にえらびながらの発音も、途中から一段と熱を帯び、身を乗り出すようにして話した。まさに視線の合った会談であった。

宮本議長がチャウシェスク書記長と直接会って会談したのは、七八年である。以来、十年余の歳月が流れている。しかし、両党関係は発展し、特に八七年には、両党首脳間の書簡やメッセージの交換、党代表の派遣などを通じ、両党代表の十分な意見交換を重ねて、歴史的な共同宣言をだした。今回の宮本議長の親書とそれへのチャウシェスク書記長の即座の対応ぶりは、両者と通じ、そして両党のこれまでの交流の進展によって発展させられてきた両党の同志的信頼関係を目の当たりに肌で感じることができた思いであった。

熱弁と仕事後の喜び

チャウシェスク書記長と金子書記局長との会談をうけ、金子書記局長ら一行とエミル・ボブ政治執行委員・書記らとの会談は、十七〜十八の二日間にわたって開かれ、これらをうけ両党代表からなる共同文書づくりの作業がおこなわれた。金子書記局長は、宮本議長の親書をふまえ、共同宣言の重要性、世界の情勢、反核・平和運動と諸国人民のたたかい、これに関連して世界の共産主義運動にあらわれた問題などについて、明確にわかりやすく、いわば「金子ブシ」で、時にはユウモアをふくめ熱弁した。

こうした経緯をへて、「日本共産党の宮本顕治中央委員会議長とルーマニア共産党のニコラエ・チャウシェスク書記長の共同宣言二周年を前にして」という両党中央委員会の共同文書がまとまった。それは、第三回の会談での金子、ボブ両同志の表情と発言、固い握手によって確認された。ボブ同志は、私たちはよく仕事をしたことを評価できるとのべるとともに、今回の訪問は両党間の関係強化のための新しい一歩となったと評価しているチャウシェスク書記長からの挨拶を伝えた。

金子書記局長は確認文書がまとまったことへのよろこびを表明するとともに、一連の会談が、両党関係のみならず、世界の運動の前身への貢献だとの宮本議長からのメッセージを伝えた。「あす東京に帰る。私たちの熱い思いはブカレストに残し、あなた方の好意と友情をトランクに入れかえる。これには運賃がかからない」とのべる金子書記局長の発言には、皆うなずき、声だかに笑った。その夜催された晩さん会は、なごやかで、もりあがり、金子・ボブ同志らの話は、はずみ、終始笑いがたえなかった。

ルーマニアの首都・ブカレストは、木立が多く、春の緑を髣髴(ほうふつ)させた。熊本育ちの私にとっては、はじめてみるそそりたつポプラが印象的だった。今年は、例年にない暖冬とのことで、昼間は十度近い日もあり、根雪もとけだした程だった。

そうした雪のない空港で、帰国の見送りをうけ、方をだき合い別れの挨拶をつげるその双方の手に、入国の時より力がこもっていたのが最後の印象であった。それはまた、八七年の共同宣言の重みと生命力を実感させるものであった。

(党中央委員・社会科学研究所現代資本主義部会員)

赤旗新聞 1989年1月25日

自由の祖国か死か

赤旗ニカラグア記事

安保法制を巡る与野党の議論が続いているが、正直昨年の集団安全保障に関する議論から一歩も出ておらず、あまりコメントすることもない。

予想通り、個々のケースについてどのように対応するのか、それがどこまで許されるのかという袋小路の議論が続いていており、安倍政権も左翼の術中に陥っている。

非常事態というのは、事前のシミュレーションでは起き得ない事が必ず起きる。紛争発生時に中国がどのような行動をするのか事前に予測する事は不可能だ。そもそも、日中衝突と思っていたらロシアが攻めてきた、なんて事も有り得るのである。

今日はあまりこの事には触れず、ニカラグア内戦に学ぶ祖国防衛の続編である。

日本共産党の不破書委員長は、今から約30年前の1984年12月、ニカラグアを訪問した。以下はその時の赤旗記事の抜粋である。

「ヤンキーくればやっつける」

不破委員長とともに、年若い戦車兵に声をかけると、「ヤンキーがもしきたら、徹底的にやっつけますよ」、ニッコリ答えがかえってきました。

レーガン政権はこのところ、ニカラグアへの武器搬入を阻止するとか、ソ連製のミグ戦闘機が運ばれている疑いがあるとか、武器輸入は自衛の限度をこえているとかいい、侵略の機会をねらっています。

しかし、ニカラグアがどんな武器を輸入しようと、それはニカラグアの権利です。

「自衛の限度をこえている」などと勝手に決めつけること自体おこがましい限りですが、それをいうなら、日本をはじめアジア、ヨーロッパへの大量の武器と軍隊を配備しているアメリカこそ、その最たるものでしょう。

ところが、日本の一部マスコミにも、まるでミグ機が搬入されれば「悪」であるかのように、「ミグ疑惑」などといっている向きがあります。とんでもない話です。いったい民族自決権についてどう考えているのでしょうか。

1984年12月9日(日曜日)赤旗

「戦車を占領」

マナグア市内、ぎっちり組まれた日程のなかで昼食後のひととき、不破委員長と散歩に出た私たちは戦車にバッタリ。なんと子どもたちが占領しています。

砲身にぶら下がったり、砲塔に上ったり、格好の遊び場です。銃を肩に若い戦車兵はニコニコ。恋人が心配していないか、の質問に「全然。二人でともにたたかうのだから心強いですよ」。

その夜、アメリカの侵略の脅威下の軍事、経済、外交などの情勢を詳しく不破委員長に説明したホセ・バソス国際部副部長は、戦車と子どもの話に「ソモサ時代は考えられなかったことですよ。私たちはマナグア市をアメリカの侵略から防衛する決意を固めています。だから戦車が出ても市民は安心し、落ち着いているのです」。

1984年12月23日(日曜日)赤旗

タイトルの「自由の祖国か死か」というのは、上記赤旗の記事のキャプションである。

天安門事件を無視する政治家たち

天安門事件とは、1989年6月4日、民主化を求めて天安門広場に集まった民衆に対して、人民解放軍が武力で鎮圧した事件である。

西側諸国は中国に対する経済制裁を決定し、日本もそれに追随する形で円借款供与を中断した・・・・。は?

今から考えると全く理解に苦しむが、当時、日本は円借款という形で中国にお金を貸して、中国のインフラ整備に大きな貢献をしていた。天安門事件は、その動きに転機をもたらすものであった。

転機をもたあらすはずだったのだが、当時から存在した媚中派が早期の関係回復に動き出す。なんと同じ年の9月17日には自民党の伊東正義を団長とする「日中友好議員連盟」が訪中したのだ。伊東正義は小平及び李鵬首相と会談し、日中友好関係を再確認した。

公明党や社会党は、市民に銃口を向ける中共が大好きであるから理解できるが、一体、どうして自民党が国益を損ねてまでも天安門事件の首謀者たちを助けるような訪中を敢行したのだろうか。

片方で天安門事件を引き合いに日本共産党を批判しつつ、片方では中国利権に群がるため、自民党も公明党も、東欧民主化の歴史的意義も理解せず、媚中ぶりを振り撒いていたのである。

さて、中曽根以降、日本は竹下、宇野、海部、宮澤と総理大臣に恵まれず、国力を低下させていく。

海部政権は翌年には円借款の再会を決定。1991年8月10日、海部総理は西側の首脳としては始めて訪中し、天安門事件を水に流した。これ以降、お墨付きを得た西側企業が中国の改革開放路線に乗って投資を活発化、中国を経済成長させていく事になる。

その翌年、海部俊樹の次の宮澤喜一政権は天皇陛下訪中を実現させる。1992年10月の事である。その翌年は河野談話が出された。そのような時代であった。

中国を資本主義に慣れさせ、国際社会のルールに馴染むようにしていくことの方が、経済制裁で押し込むより効果があると考えたのかもしれない。もちろん、媚中派議員はそのような遠大な思想があったわけではなく、単に中共のイヌであったに過ぎない。

しかし、そのような考え方が如何に間抜けな発想であったかというのは、その後の中国の反日ぶり、アジアでの軍事覇権の拡大を見れば明きらかである。日本が西側諸国の先陣となって天安門事件を不問にしたところ、中国は日本に対して反日攻勢を仕掛けてきたのである。

今年になって要人の中国詣でが相次いでいる。二階俊博は韓国に次いで中国に大使節団の長として訪問した。

中共は、日本が譲歩して歩み寄った直後に、日本に対して高圧的な要求を開始し始める。これが歴史に学ぶという事である。日中友好論者は天安門事件の事も水に流し、日本側が妥協すれば日中対立は解消されると信じているようだが、歴史をきちんと勉強してもらいたものだ。