朝日新聞昭和24年5月8日社説『在留朝鮮人の生活問題』

戦後四年、まだ新聞がGHQの検閲を受けていた時代に、朝日新聞は在留朝鮮人の生活問題という題ではあるが、朝鮮人の暴動についての記事を掲載した。

全体的には、朝鮮人批判は非常に抑えてはいるが、呉、会津若松、松山、鶴岡、新潟で朝鮮人暴動が発生した事を述べており、朝鮮人側に自制を促す内容となっている。

今回もまた、引用だけにしてコメントは後日。

日鮮融和ということは、日本にとっても朝鮮にとっても極めて大切なことである。それは何人も疑わないが、事実は必ずしも満足すべき状態ではない。さきに東京深川に起った武装警官と朝鮮人群集との衝突事件はまだ記憶に新しいが、原因や規模に差こそあれ、これに類する事件はすでにこの四ヶ月の間に、呉、会津若松、松山、鶴岡、新潟などの各地にも発生しており、日鮮関係を○くする問題として○○の関心をよんでいる。

日本に在留している朝鮮人は約六十万を数えるが、このうちしっかりした営業なり職場なりをもっているのはごく少数で過半は失業と同様の状況におかれている。しかも商売をしようにも、日本人自身企業の行詰まりで失業がふえてくる昨今の世○では、資材や資金を調達ことがなかなか容易でないばかりか、彼らにはその窮状を訴える政治的手段がないわけである。いきおい密造かその他のヤミ行為でもやらなければ生きてはゆけないし、その生活苦から犯罪の袋小路に追いやられる物は決して少いわけではない。

われわれの良識はもとより彼らの悲惨な生活状態に目を覆うことを許さないが、ドブの密○とか○○のヤミといわず、いやしくも経済の秩序を乱す行為が許されてよいわけがない。まして社会の安寧を脅かす犯罪行為にいたっては、日鮮のへだてなく、法の定めるところに従って厳に○○せねばならぬ。この点については朝鮮人側においても固より異論のあろうはずはあるまい。ただ終戦後しばらくの間、解放を喜ぶのあまり、朝鮮人達にいささか行過ぎの行為があったところから、それが感情の上になるシコリを作ったことは確かである。しかしそれももう解きほぐされなければならぬ。それがいつまでも残っていて、それがために○記のような好ましからぬ事件が起きるとすれば、それは日鮮関係に憂うべき○○を○えるであろう。それだけにこの種の事件は○も冷静に、良識にしたがって処理されなければならないだけでなく、むしろ進んでこの種の事件の発生を予防する措置について○○せねばならぬであろう。

事件発生の原因についてみると、昨年四月の大阪、神戸における小学校事件特殊の問題としてしばらくおくが、その他はおおむねヤミ酒づくりの摘発や犯罪容疑者の摘発がもとになっているようである。さきにも○べたように、在留朝鮮人の生活○がヤミ酒つくりや犯罪へと追いやったとするならば、かかる不幸な事件の発生を予防するにはまず、在留朝鮮人の生活安定の○○○から検討してかからねばならぬのである。

いうまでもなく在留朝鮮人はすでに終戦前から久しく日本にあり、中には日本人の配偶者を持つものも少くなく、かなり日本の社会にとけこんでいる。それはともかくとしても、すでに在留するものに対して、民族的○別をもって彼らの基本的な生活○を脅かすことは断じて許されない。しかし続発する数々の憂うべき事件を○にしては、在留朝鮮人自身もこの○○に対して自ら反省する必要は大いにあるのであり、その自覚を促すことは絶対に必要である。自分達がいま自国ではなく他国にあるのだという自覚は、何としてもハッキリ持ってもらわなくてはならぬ。ことに、現在の日本国民は、自ら分ちあって食うにも事欠く経済状態で、ために海外から援助を仰いで辛うじて切抜けているという事実、したがって日本経済の○○に対する助力こそ欲しけれ、これがこう乱は日本国民としてはなはだ迷惑に感じているという事実については、特にその指導者たちが在留朝鮮人に対して啓発するところがなくてはならぬ。

生活苦からくるやむを得ざる○い生活ではあろうが、そのヤミ酒づくりやその他のヤミ行為に○される労力と摘発を恐れる緊張感を、ほかの仕事にふりむけることができれば、彼らの生活はもっと明いものになろう。すでに共同農場の経営や炭○や○○工事請負などで見事に生活の安定に成功した幾つかの例を数えることが出来る。いずれにしても日本経済の自立復興に協力するそのことが、同時に六十万朝鮮人の生活を安定に近づける道でもあろう。

もとよりこの道も決して平かな道ではあるまいが、○○としてむつみ合わなければ、在留朝鮮人がわが社会秩序に○○し、生産的な労働へと○○する限りにおいて、われらもまた出来るかぎりの援助を惜しんではならないし、また惜しむものではない。

朝日新聞昭和24年5月8日社説

戦前からインドネシア独立を支援していた日本人

大東亜戦争終結後、インドネシアの独立戦争に日本人が参加した事は、最近の右傾化の中で多く語られるようになっている事実である。約2000人の元日本兵が独立戦争に参加し、約1000人が命を落したと言われている。

インドネシアの独立戦争とは、大日本帝国からの独立ではない。オランダからの独立である。戦後、オランダは日本軍が去ったインドネシアに対する植民地支配を継続したが、インドネシア国民は独立戦争を闘い、1949年に独立を実現した。

日本人がインドネシア独立戦争に参加したのは、太平洋戦争に敗北して行き場を失くした軍人が暴れたという話ではない。実は戦前から日本はアジア諸国の欧米列強からの解放というイデオロギーを持っており、それを実演しようとしていた日本人もいた。

吉住留五郎は、昭和10年にインドネシアに渡航、インドネシア独立を支援する事になるが、昭和13年にオランダから強制追放されていまう。その後昭和16年に再度インドネシアに潜入するが、戦争勃発により捉えられ、収容所生活を送るようになる。その後昭和17年に釈放されるが、インドネシア独立支援を継続した。

インドネシアの独立に日本人が協力したのは歴史の事実であり、インドネシアが比較的親日である事の理由にもなっている。しかしながら、インドネシアの親日の雰囲気も翳った時がある。それは戦後賠償に関する交渉の時である。日本が戦争中悪い事をした、だから賠償金を支払う、という事を決着する時期だ。お金がからむと、友好関係にもひびが入るのである。

朝日新聞1952-08-10

朝日新聞1952年8月10日

右傾化の分析~にわか歴史学者への道

最近の右傾化は、竹島問題や従軍慰安婦問題をきっかけとした韓国への反発がお決まりのルートのようである。入口は何であれ、左翼の主張通りに歴史を学んだ結果、戦後の偏向教育を覆す発見の面白さにハマってしまい、歴史オタクになっていくような人達もいる。

学校での歴史教育は明治時代まで辿りつくまでに時間がかかり過ぎ、昭和の歴史をじっくり教えられる事がないと言われている。実際には、戦争の歴史があまりにも重いテーマであるため、先生も扱いたくないというのが一部にはあるだろう。結局、日本は非常に悪い事をした、という抽象的な話だけが伝えられ、実際には何が行なわれていたのかは教えられずに歴史の授業が終る事が多いのだろう。

そうなると、日本人の歴史理解というのは曖昧なイメージで形成される事になる。例えば、「日本によるアジアの植民地支配」というフレーズから、あたかも大東亜戦争における日本の最大版図に含まれるアジア諸国が全て日本の植民地支配を受けたとの印象を持ってしまう。

そういったレベルの人達が、実はインドネシアは日本から独立したのではなく、オランダから独立したのだ、という史実を知ると、もやもやした先入観が流されて真実に覚醒するかのような快感を覚えるようになるのだ。

そのうち、盧溝橋事件と柳条湖事件、張作霖爆殺事件の順序関係も知らなかった状態から、学校の先生顔負けの知識を積むようになる。これらの人達は、歴史論争に負けたくないため、一次資料を重視するようになり、ネットで流布する話についても原資料を自分の目で確認しなければ納得しないようになる。

さて、これらの人達は右翼だろうか?

もちろん、右翼ではない。単に一般的な日本人より歴史の事実を知っているだけの話だ。ただ、原資料を元に史実を淡々と理解する姿勢は、左翼から見れば右翼に見えてしまうのである。なぜなら、左翼の歴史は日本を徹底的に貶める視点での捏造された観点で語られる歴史だからである。

したがい、これらの人達は必ずしも保守勢力とは言えない。むしろ枝葉末節の歴史解釈で保守派とは無駄なケンカをしそうな人達でもある。いずれにしても、少しでも真実の歴史に触れる面白さを、多くの日本人に知ってもらいたいものである。

右傾化グラフ2

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朝鮮人と一緒に革命目指して騒乱を起していた日本共産党

1952年というのは、講和条約が発効した年であり、韓国が李承晩ラインを設定して竹島強奪を開始した年でもある。同時に、朝鮮人と日本共産党が一緒になって、日本中で大暴れした年でもあった。

5月1日には有名な「血のメーデー事件」が発生。日本共産党による扇動に加え、朝鮮人が参加し、赤旗と竹槍を持って皇居前広場を行進、警官隊と衝突した。デモ隊は皇居前広場を人民広場などと称しており、革命気分が漲っていた。またデモ参加者は「再軍備反対」を主張していたが、今も昔も憲法9条信者は共産主義者や朝鮮人に洗脳された連中なのである。

朝鮮戦争勃発2周年にあたる6月25日には各地で朝鮮人が日本国内での代理戦争とも言うべき暴動デモを実施、特に北朝鮮系の在日朝鮮人は日本共産党と結託して大暴れをした。お得意の硫酸ビンやら火炎ビンなどの武器を駆使し、これまたお得意の反戦平和を叫んでの騒乱デモを実施したのである。新宿駅前では2500人が集結して警官と衝突。全国で北鮮系110箇所・計2万人、南鮮系10箇所・計2千人が参加したという。

朝日新聞1952年新宿騒乱事件

朝日新聞1952年6月26日

この日の暴動で他に有名な事件としては、吹田事件・枚方事件がある。

これらの暴動が、主権を回復し明るい未来を夢見ていた当時の国を深く失望させたのは間違いない。共産党はその後の選挙で議席を全て失ってしまった。

戦後の左翼運動というのは、全く朝鮮人と日共の合同による革命闘争であって、国民生活を不安定にさせてきただけであった。今日では物騒な騒乱はなく、リベラルな主張に騙される国民も多いが、その正体に変化はない。彼らは反日勢力であり、いつの日か皇居を人民広場として開放させたいと考えている外国勢力でもある。

1952年の騒乱についてはいくつか裁判が起されたが、不思議な事にほとんど無罪である。戦後の左傾化は司法も蝕み、反日勢力が国家権力の側に浸透していったのだ。

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北方領土問題は日本がスターリニズムを認めるかどうかの問題だ

日本が抱える領土問題は、単なる国境線のギブアンドテイクの話ではない。正義とけじめ、そして先人達の苦難に思いやる心の問題である。その中で北方領土問題は、スターリン独裁によるソ連の横暴を日本が認めるか否かの問題であり、外交上のカードでもなければ、時の政治家が後世に名を残すかどうかの点数稼ぎの代物でもない。

ソ連は1945年8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦を布告、満州への電撃的な侵略を開始した。支えきれなかった関東軍も問題ではあったが、ソ連軍は満州と朝鮮半島北部の日本人民間人に対し、虐殺、強制監禁、強姦などの罪を犯し、罪のない多数の日本人に地獄の苦しみを与えたのである。

日本は同年8月14日にポツダム宣言を受諾したが、ソ連はその後も侵略を続け、8月18日、停戦命令を受けていた千島列島の日本軍に攻撃を開始、その後9月1日までに北方四島を占領した。連合国軍が日本への攻撃を停止している中でも、ソ連は狂ったように日本の領土を侵し続けたのである。

東京裁判において、ソ連は解決済みだった1938年の張鼓峰事件と1939年のノ モンハン事件を取り上げ、「平和に対する罪」すなわちA級戦犯の訴追事項の一つとなった。

戦後、ソ連との間ではシベリア抑留というのが大きな問題であった。満州及び朝鮮半島でソ連軍の捕虜となった日本軍兵士の多く、何十万人という人々はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられた。これについては1993年、エリツィン大統領が謝罪をしている。

ソ連の対日宣戦布告とその後の野蛮な侵略行為は、スターリンの卑劣・残虐な姿勢そのものだ。日ソ中立条約の一方的破棄は、ロシアという国が隣国として付き合える国ではないという事を意味する。北方領土はそのシンボルなのであり、後世の我々がビジネスライクなギブアンドテイクで解決するような問題ではない。

我が国政府は未だにプーチン大統領の訪日について言明していない。彼が訪日したところで日ソ中立条約破棄と、満州における非人道的な行為について謝罪するとは思えないし、謝罪したところで北方領土が返還されない限り無意味である。

前世紀の悪はファシズムである。その代表はナチスとスターリンのソ連だ。北方領土返還はファシズムとの闘いでもあるのだ。

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